7月21日(月)、「海の日」の今日、上さんと山さんといっしょに、旧山陽道を歩く旅を楽しんだ。中国、近畿でも今日は梅雨明けの宣言があり、暑さの厳しい一日だったが、自然がたくさん残る道中歩きは楽しいものだった。
三石駅 Mitsuishi Station
前回、有年から三石駅まで歩いたのは、今年、桜満開の4月5日のことだった。三石駅の階段を下り、橋を越えて旧街道に入る。「三石一里塚跡」の案内を確認し、街道歩きを開始する。
耐火煉瓦と孕石(はらみいし)神社 Mitsuishi Refractory Bricks and Haramiishi Shrine
三石は耐火煉瓦の一大生産地である。今もあちこちに関連した工場や商店が並んでいる。Mitsuishi Taka Renga co., ltd. とプレートを張り付けたこの家の車庫は、耐火煉瓦をアーチに組んだモダンなものだ。先ほどのプレートには"We love Bricks" とも書かれている。その先、右手に、紺の生地に「孕石神社」と染め抜いた幟が立ち、三石明神社(三石神社)の案内をしている。「神功皇后が子を孕んでいながら当地に立ち寄り、社の岩の上で休息されたという。以来、境内の岩や石が白い小石を孕んでいるようになった」という伝承がある。ご神体は社の前に置かれた大岩で、性信仰の遺物のように見えた。
かどや・三石城址 Kadoya, Mitsuishi Castle
商店の並ぶ三叉路には「かどや」の看板が見えたが、北さんが「陣屋の跡だ」と教えてくれた。さらにその先には、「三石城址」の案内があった。城址までかなりの登り道で、距離もありそうなので、行くのをやめた。中国銀行前を通過し、信号を渡ると、前方にJR山陽線のトンネルが見えてきた。
光明寺・ろう石鉱床 Komyoji Temple, Pyrophyllite
トンネルの直前、右手に寺院があり、「高野山真言宗日光山光明寺」とする石柱が立っていた。唐風と言うか、白い山門がユニークだ。中へ入ると、煙で境内が白く霞んでいる。檀家の人たちだろうか、本堂や庭を掃除して忙しそうに働いている。一人にろう石のことを尋ねてみた。。「線路の向こう、台山(だいやま)が、ろう石鉱床の中心ですよ。耐火煉瓦の原料で、昔はずいぶん盛んだった」と言う。果たして、トンネルをくぐって向こうへ行くと、ろう石の鉱床や、関係する建物が点在する。三石のろう石産出量は日本一なのだそうだ。亡くなった母から「授業でろう石を石筆として使って勉強した」話を聞いていたが、ろう石は耐火煉瓦やセラミックなどの原料になるらしい。後で調べると、土橋鉱山の会社のホームページに詳しい内容が紹介されている。三石という地名や孕石神社など、ここのろう石と関係があるかもしれない。
八木山集落 Yagiyama Town
山陽自動車道備前インターチェンジがあり、山間だが自動車の往来が激しい。我々は国道2号に沿って進んでいき、八木山の集落に入る。入口に、「薬師如来霊場参道入口」の案内板があり、我々はここで休息タイムをとった。いいタイミングで休息をしてくれるので、ありがたい。幸いなことに、ここまでは曇天で、比較的歩きやすかったが、湿度は高い。八木山の集落は、松の木が庭木に植えられていたり、純日本風の景色が楽しい。集落の出口には地蔵が2体、細長い社に収められていた。道はやがて、山陽自動車道の高架をくぐる。その高架下にも2体の地蔵が祀られてた。国道2号に沿って進むと、「明治天皇八木山御小休所阯」と記す大きな石柱と、その右手に「八木山一里塚跡」の小さな石柱が立っている。「閑谷学校直進2.7km先信号右折」という案内もある。二軒屋を過ぎ、四軒屋の信号で、右手に国道を離れる。
閑谷 Shizutani
四軒屋(しけんや)の先、廣高下(ひろこうげ)の集落で、出会った女性に話しかける。「閑谷というのは随分と広い地名で、ここもそうだし、この先向こうの集落も閑谷に含まれる。この辺りの子どもたちは、4km先の伊里までスクールバスで通っている」など、いろいろと親切に話してくれた。さらに歩いて、我々は木谷の集落に入ってきた。こんどは、おじさんが声をかけてくる。「山陽道を歩いているんですか。じゃ、ちょっと先にある三石城主浦上村宗の塚を見て行きなさいよ」 と言う。「距離はどれくらいですか」と、確かめる。あまり遠いと、歩くのが大儀になっていたのだ。「あそこの緑の看板の下さ、橋のところだ」と言う。100mもなさそうだ。あそこならと、ちょっと迂回する。宝篋印塔が2つあり、横に由来が案内してある。三石城は行けなかったが、城主の墓参が出来たので、よかった。木谷には、閑谷神社を案内する石柱が立っていた。「従是卅壱丁十四間」とある。ちなみに閑谷神社は「閑谷学校」のことで、閑谷学校の創設者である岡山藩主池田光政を祀るために貞享三年(1686)に建てられ、明治八年(1875)に神社に格付けされ、閑谷神社と改称されている。神社は、この道を真北に歩けば行けるのだが、31丁は寄り道にしては遠すぎるので、西へと進む。
伊里中 Irinaka Town
木谷の先は伊里中の集落で、我々は少し街道を離れて、近くの浄光寺に昼食の場所を求めた。子どもたちが境内で遊んでおり、彼らに断って、ベンチを借りた。食事を済ませて寺を出ようとすると、母親らしい人が車で戻ってきた。子どもたちからすれば、怪しい風体の三人連れに、不安を感じたことだろう。母親に礼を述べ、出発した。伊里中の集落を進む。小さな祠の地蔵さんには大業な「一本松地蔵菩薩」と染め抜いた幟が何本も立っている。藤ヶ棚茶屋跡を過ぎると、2号線に合流し、「片上一里塚」の石柱を確認した。国道を離れ、右手の細道に入ってから新幹線の高架をくぐる。
天神 Tenjin Town
東片上の集落を歩く途中、題目石を確認、細道が再び国道に交わるところに天神社がおわす。この辺りの集落の名前も天神で、上さんが言うよう「神社の狛犬は備前焼き」である。国道を横切り、JR赤穂線の備前片上と西片上駅の間に位置する、塩谷の踏切を渡る。その先に法鏡寺があった。寺の門前には「藤原審爾(しんじ)旧宅跡」という石柱が立つが、案内を読むと、「氏は直木賞作家で著書に『秋津温泉』『罪な女』等がある」と書かれている。後で調べたのだが、大正10年生まれの彼は、「小説の名人」という異名を取ったスゴイ人で、山田洋次の「馬鹿まるだし」という映画は、彼の『庭にひともと白木蓮』をベースにしているという。ハナ肇主演のその映画は随分と印象に残っている。いつか原作を読んでみようと思う。
宇佐八幡神宮と駒犬 Usahachiman Shrine and its Lions
さて、西片上駅近くまでやって来た。右手に宇佐八幡宮があり、その石の鳥居の両側に、やはり、「備前焼の狛犬」が並んでいる。ただし、この狛犬は備前市の指定文化財になっており、文政9年(1826)のものだと案内がある。宇佐八幡宮は足利尊氏にまつわる神社で、江戸時代には10万石の格式をもったとされている。
西片上 West Katakamki
西片上のこの辺りは随分とにぎやかで、街道筋には、歴史を案内する標柱があちこちに立っている。津山街道の案内、刀工備州祐高造之宅跡、前海屋跡、片上駅三の陣跡、万代常閑翁跡、明治天皇行幸の地、恵美須屋跡、片上脇本陣跡などが、次々とあらわれる。
お夏さん Onatsu-san
さらに、西之町集落に入るところに、「葛坂峠お夏茶屋跡700m、悲恋の灯花お夏の墓」の案内があり、矢印に従って進む。道が二つに分かれた角地に、お夏の墓があった。お夏・清十郎については、姫路城近くの慶雲寺で、二人の霊を慰める比翼塚を、上さんに案内してもらって、見学済みである。許されぬ恋ゆえに、清十郎は刑死し、お夏は狂乱する哀しい恋物語である。
葛峠から伊部へ From Kuzu Pass to Imbe
片上から伊部へと進む西国道は葛坂という峠を越える。峠にお夏茶屋跡があり、案内には、「お夏は天性美貌と知れ渡った評判の店は随分はやった」としてある。お夏・清十郎の二人は片上港で追手に捕まり、清十郎は処刑され、お夏は葛坂峠で茶屋を開いたという。さて峠を下ると、国道に沿って進むが、伊部一里塚が国道沿いにたっている。街道は、伊部東で右に折れ、備前焼きの店が並ぶ芸術的に洗練された通りを進む。
備前焼の宮・天津神社 Amatsu Shrine with lots of pottery works
道の右手に天津神社がたつ。さすが備前焼の古里だけあって、この神社は備前焼きの展示場のようになっている。神社の門は備前焼神門で、備前焼の瓦で葺かれ、壁は備前焼の獅子を配した陶板で作られている。本殿に向かう塀には現代備前焼作家の陶印入り陶板がはめ込んである。参道も備前焼陶板が敷き詰めてある。後でちょっと備前焼の店を覗いたが、小さなコップが2~3千円もすることから考えると、ここに並んでいる備前焼の金額は計り知れない贅沢である。
備前焼の伊部 Imbe Town
我々の本日の最終地点である伊部駅が近づいてきた。たくさん備前焼の焼き物を商う店が立ち並んでいるが、自分にはかけ離れた世界で、気になるのは値段だけ。陶泉堂という名の焼き物店のある三叉路が今日の終点で、ここを左折してJR伊部駅に向かう。
伊部駅 Imbe Station
JR伊部駅の北口は、備前焼伝統産業会館を兼ねており、駅は明らかにJR職員とは異なるレディたちが改札をしていた。青春18切符を示すと、丁寧に「ありがとうございます」と言ってくれた。
今日はホントに暑かった。しかし、足が痛まなかったのが幸い。次回は次の日曜日。楽しみだ。