前回大阪狭山市池之原の石造物について紹介した。今回は、岩室の石造物について紹介したい。岩室は大阪狭山市と堺市の境界を南北に走る西高野街道に沿って立地する標高100m前後の丘陵尾根線上の高地に立地する地区である。行政区は異なるが、実生活の上では一つの村として活動を共にしてきている。地区は、「上」「下」「観音畑」の三つに細分され、隣組の単位になっている。近世には、現在の池之原も含め、岩室村として狭山藩、寛文12年(1672)以降は天領として支配され、宝永2年(1705)以降、一部が水野氏領となったまま明治維新を迎えている。村には鎮守社として熊野神社(現在の池之原神社)があったが、岩室だけは岩室観音院内の熊野神社を祭祀している。ちなみに堺市岩室は、近世の初めより陶器藩(小出氏)領、一度天領となったが再び小出氏領となって幕末に至っている。

usanaoさんの絵文字     高野山女人堂への町石
高野街道に見られる道標・町石(ちょういし)建立者のうち、大阪狭山市に関わる人物が、茱萸木(くみのき)村の小左衛門と五兵衛である。岩室2丁目の西高野街道沿いに、高野女人堂への里程を示す町石がたっている。正面に「是より / 高野女人堂江十一里」、左面に「南無大師遍照金剛」、右面に「安政四年巳年(1857)二月 発願主 / 茱萸木村 / 小左衛門 / 五兵衛」と刻む。西高野街道には、ほぼ同規格の安政四年の町石が、堺市堺区榎元町のものをはじめとして、和歌山県高野町細川まで1里ごとに建てられており、その多くに小左衛門・五兵衛の名前を確認できる。五兵衛の子孫は今も大阪狭山市におられる。
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usanaoさんの絵文字   岩室墓地
岩室・池之原の墓地は、大阪狭山市岩室・池之原・山本北のほか、堺市岩室・中区見野山の人びとが共同でりようしてきたもので、堺市南区岩室にある。岩室墓地のなかで、大阪狭山市に関わる一番古い石造物は大永四年(1524)の五輪塔である。池之原の地区長さんに、池之原からの墓道を教えてもらったが、それは現在のコーナンの中を横切っている。
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usanaoさんの絵文字  岩室観音院
岩室観音院は堺市南区岩室にある。真言宗の寺院で、行基の手作りと伝承する観音を本尊にする。岩室観音院は大阪狭山市岩室・堺市南区岩室両集落の檀那寺であり、境内の熊野神社はこの地域の神として住民の信仰を集めてきた。そんなわけで、大阪狭山市の人びとが関わった石造物もいくつか見られる。
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usanaoさんの絵文字   熊野権現
堂内には、石段の上に神体をおさめた堂宇がある。お堂の前には南北にならんだ1対の石灯籠と、東西にならぶ1対の狛犬がある。石灯籠には、一方に「宝燈;文政二年(1819)夏六月;□俗称□右衛門□□応物 / □□□右衛門□□信道」と刻み、ほかの一方に「宝燈;文政二年夏六月;此俗称作右衛門□□応物・・・・」と刻む。狛犬の一方には、台石1に「奉献」、台石2に「九月吉日建立」と刻み、ほかの一方の狛犬には、台石1には「奉献」、台石2には「天保六乙未星(1835);施主 / 何某」と刻む。
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usanaoさんの絵文字   熊野権現の鳥居、石灯籠、百度石
岩室観音堂から熊野権現への参道に、石の鳥居、石灯籠、百度石がある。鳥居には、左の柱に「施主堺甲斐町・・・」、右の柱には「元文三戊午(1738)四月十一日・・・」と刻む。石灯籠には、「権現宮;岩室村 / 氏子中;明和五(?)年(1766?)九月日」と刻む。また、百度石には「明治廿四年(1891)十月;施主西中林」と刻む。
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usanaoさんの絵文字     水子地蔵、宝篋印塔、石灯籠
岩室観音院の庭に入っていく。台石に「水子観音」と刻む比較的新しい水子観音がある。その後ろ、鐘楼前の石段の両側に1対2基の石灯籠がある。「元禄五壬申(1692)/ 二月吉祥」と刻む。さらに宝篋印塔が1基立つ。塔身に金剛界四仏種子、基礎の部分に「法界;礼拝供養 / 八十億劫 / 生死重罪 / 一時消滅;修多羅日 / 若有有情 / 能於此塔 / 一香一華;享保十七壬子年(1732)/ 十月廿四日」と刻む。劫とは、仏教などインド哲学の用語できわめて長い宇宙的時間の単位をいう。ヒンドゥー教では43億2千万年である。「五劫のすりきれ」とか「亀の甲より年の劫」などという言葉に片鱗がみえる。「すりきれ」については面白い話がある。大乗仏教の論書『大智度論』に「40里(換算で現在の20km)四方の岩を3年に1度天女が舞い降りて羽衣でなでる。その岩が擦り切れてなくなってしまうまでの時間が「劫」なのだ。
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usanaoさんの絵文字   石灯籠
鐘楼の左手、植込みと案内板の間に1基の石灯籠がたつ。竿の部分に「奉寄進石灯籠;正月吉日 常屋六兵衛 / 同徳兵衛? / 元禄三午年(1690)施主堺」と刻む。市内の石灯籠のうち、もっとも古いものである。
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usanaoさんの絵文字   地蔵石仏
鐘楼の北側の堂宇内に7体の地蔵石仏がたつ。Aには銘文がない。Bは「施主当村観音経姉弟等 / 享保?十乙巳年(1725?)三月吉日」、Cは「元文四己未年(1739)/ 十一月十八日;法界」、Dの182cmの地蔵は「無縁法界 / 法眼鏡音」と刻むが、E、Fには銘文がない。Eの仏像は二十仏で、角柱の4面にそれぞれ5体ずつ仏像が浮き彫りされている。子安地蔵であるといい、前掛けを夜のうちに黙ってもらってきて、枕の下に敷いて寝て、また黙って返すと子どもが授かるという。最近は観音院にことわって前掛けを借り出す人も多いとのことである。なお、7体めはFの後ろに置かれている。銘文の存在は確認していない。
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usanaoさんの絵文字   百度石
岩室観音院の山門を入った参道に、百度石がたつ。「百度石;嘉永七寅(1854)二月施主当村 / 勘右衛門…」と刻む。…の部分には、「熊次」「辰□」「長兵衛」「嘉兵衛」「忠右衛門」などの名前が読み取れる。
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usanaoさんの絵文字   三十三度供養塔宝篋印塔
聖霊殿横に213,5cmの三十三度供養塔宝篋印塔がたつ。塔身に金剛界四仏種子が刻まれているが、基礎や基壇に多くの名前が列挙されているのが特徴である。まず基礎には「奉納西国三十三度供養塔 / 癸天明三歳(1783)/ 卯三月十六日」という銘文に加え、『宝篋印塔陀羅尼経』の一節とともに男女5名の戒名がみえる。また、三段の基壇の最上段にも「願主正圓」のほか、18名の戒名が刻まれている。基壇の2段目には「施主岩室村忠左衛門 / 喜兵衛 / 作右衛門 / 治良兵衛 / 五兵衛 / 忠兵衛」、裏に「施主 / 今熊村新左衛門 / 当村兵左衛門 / 池原村紋左衛門 / 北村庄兵衛」、左面に「世話人 / 茂兵衛 / 利兵衛」、右面に「左山池尻村 / 塔施主 / 黒岡重兵衛 / 同妻」と人名が続く。「佐山池尻村」「池原村」「今熊村」などの村民の名前から、大阪狭山市の人びとが関わった石造物は興味をひかれる。なお、三十三度供養塔とは、西国三十三か所の巡礼を33回なしとげた満願成就の供養塔である。西国三十三度行者に、明治41年(1908)から大正8年(1919)まで宿を提供した
家が、述べ軒数で池之原(岩室を含む)32、東野20、茱萸木11であったといいう記録がある。
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usanaoさんの絵文字   宝篋印塔
植込みの真ん中に、もう1基宝篋印塔がある。192.5cmの高さがあり、塔身に金剛界四仏種子と、基礎部分に「法界;礼拝供養 / 八十億劫 / 生死重罪 / 一時消滅;修多羅日 / 若有有情 / 能於此塔 / 一香一華;河州茱萸木村 / 施主 / 朝田作右衛門 / 正徳四甲午(1714)二月」と刻む。施主は、大阪狭山市に関わる人だ。
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usanaoさんの絵文字   中林家
堺市南区岩室の西高野街道沿いに岩室村の庄屋をしていた中林家の門が残っている。正徳元年(1711)、池尻村、東野両村が大鳥池の水を争ったとき、庄屋中林氏はこれを仲裁したという。
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* 記事は『大阪狭山市史第七巻別巻石造物編』を参考にしました。