台風8号が無事通過した後は、梅雨の空。朝から雨が降っている。上さんが立ててくれた計画に従って、土山から宝殿まで、旧西国街道を歩いた。幸い午後からは雨も上がり、街道沿いのあちこちの史跡に寄り道しながら、20km余りの行程を歩いた。年のせいか、宝殿に近づくころには腰が痛くなってきた。それにしても上さんの元気なこと。一回り上の同じ酉年だとは思えない。


hello-sijyoさんの絵文字 土山駅 cha-meさんの絵文字  Tsuchiyama Station
土山駅の改札を出ると、上さんが駅の南側に案内してくれた。窓外を見ると、高床式住居が雨のなか立っている(9:18)。窓には「歴史とのであいミュージアム」として、駅周辺の歴史博物館を案内している。この住居模型は大中遺跡を紹介するもので、調べてみると、弥生時代の終わりごろの集落遺跡だとある。昭和37年(1962)年に3人の中学生によって発見され、5年後にに国の史跡に指定されている。また、機会をみて訪ねることにしよう。さて、旧西国街道には駅から北へと進む。途中の道路角に数個の大きな石臼が置かれていた(9:25)。一体何を挽いたのだろう。誰か、わかれば教えてほしい。
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cha-meさんの絵文字  雨の西国道 hello-sijyoさんの絵文字   Saigoku Highway in the rain
さて、国道を越え、さらに一筋行ったところが旧西国街道で、角に地蔵堂が立っている(9:26)。ここを左折し、加古川市立平岡東小学校の前を通過、かなり激しくふる雨の中を傘を差しながら歩くのはけっこう辛い。山陽本線を横切りると、右手に神社が見えた(9:50)。「五社大神」と書かれた石額が、鳥居に架かっている。
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hello-sijyoさんの絵文字 長松寺の道元さん cha-meさんの絵文字   Choshoji Temple at Takahata
ついで、高畑の薬師堂を右奥に見て進むと長松寺に来る(9:54)。堅固な山門を入ると、すぐ左手に二人の僧の銅像がある。一人はひれ伏し、茸を返している、他の一人は優しく彼に話しかけている。「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」と、銘板に書かれている。銘板の書に曰く、「二十四歳の時、正法を求めて宋に渡り、天童山に在りし時、本府の用天座(てんぞ)、職に充てらる。予、斎罷るに因り、東廊を過ぎて超然斎に赴けるの典座、仏殿前に在って苔を晒す。手に竹杖を携え、頭には片笠も無し。天日熱く、地甎熱きも、汗流して徘徊し、力を励まして苔を晒す。稍苦辛するを見る。背骨は弓の如く、龐眉は鶴に似たり。山僧、近前づきて、典座の法寿を問う。座、云く、六十八歳なり。山僧云く、如何ぞ行者人工を使わざる。座云く、他は是れ吾にあらず。山僧云く、老人家、如法なり。天日且つ恁地にする。座云く、更に何れの時をか待たん。山僧便ち休す。廊を歩むの脚下、潜かに此の職の機要たることを覚る。道元禅師「天座教訓」と。禅問答の内容、解るかな?IMG_1494

cha-meさんの絵文字  幼馴染 hello-sijyoさんの絵文字 Old Friend 
長松寺を出て、街道は2号線合流するが、平岡小学校の先で、また右手に折れる。すぐ右手は西谷八幡神社である(10:06)。西谷を過ぎると五叉路に来る。これは新在家の五叉路で、二股に分かれた左の道を進む(10:15)。JR東加古川駅を右手奥に見るころには雨が小止みになってきた。傘が不要になると随分楽になった。新在家北あたりで、一人の女性が声をかけてきた(10:26)。「歴史が好きなんですが、その先にある五輪塔は何ですか」と云う。「お墓でしょう」と答えると、上さんも話に入ってきた。女性は、「私は志方出身なんです」という。上さんも志方出身だ。二人が出所を話し始めると、何のことはない、二人は旧知の間柄だったのだ。上さんは、「自分には霊感がある」と言いながら、奇跡的な出会いに感動していた。
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hello-sijyoさんの絵文字 五輪塔 cha-meさんの絵文字   Gorinto Statue
件の女性と上さんは、過去にどんな関係だったのか、ついぞ詮索をすることはなかったが、女性は話題になった五輪塔の所までついて来た(10:31)。造立年代不詳ながら、室町初期のものとしてある。古い図絵には足利左馬頭義氏の墓と書かれているという。ちなみに彼の墓は、足利市法楽寺にある。
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cha-meさんの絵文字  高層住宅の間の旧街道 hello-sijyoさんの絵文字   Road through Condos
志方出身の女性は、多分五輪塔の前のショッピングセンターに買い物に来たのだろう。彼女と別れた我々は、センターを横切り、その横の高層住宅の谷間を通り、再び旧街道に入る(10:40)。
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hello-sijyoさんの絵文字 野口城址 cha-meさんの絵文字   Noguchi Shrine, site of Noguchi Castle
旧街道に戻るとすぐ先に野口神社があった(10:49)。上さんが作ってくれた行脚の計画書に野口神社が説明されている。「野口神社は野口城址であり、秀吉が播磨攻めの際、黒田官兵衛が指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵、野口城兵が戦った」とある。さて、おもしろかったのは、神社の南側の参道の端に立つ鳥居だ。鳥居の柱に「神武天皇紀元二千五百九十八年昭和十有三歳乃七月建立 大日本農林振興研究会長勲三等多木粂次郎書奉納者多木三良」と彫られ、反対側には国歌「君が代」の歌詞が彫られている。多木粂次郎は加古川別府村の出身で多木肥料の創始者の大金持ちだ。今も多木化学という会社が存続する。金に飽かせてこれをl建立したのかしら。神社の由緒略記には、「近くには秀吉により天正6年(1578)に攻め落とされた野口城がありました」とあったので、野口神社=野口城ではないらしい。
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cha-meさんの絵文字  教信寺 hello-sijyoさんの絵文字    Kyoshinji Temple
野口神社の社殿前で休憩を取った。持参した菓子やお茶が美味い。神社を出てすぐ先にある教信寺を訪れた(11:11)。寺の案内では、「寺は平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられた寺院で、教信上人は天応元年(781)に奈良に生まれ、興福寺で学んだあと、16歳の時に興福寺を出て40年間諸国を行脚、最後にここ賀古の駅(かこのうまや)に来て庵を結び、ひたすらに念仏を唱えながら、旅人を助けた」としている。一遍や親鸞とも親しく、教信寺に泊まった一遍は念仏踊りを興行、播州音頭の起源になったという。寺の境内奥に「教信沙弥廟」があり、大きな五輪塔が新しい玉垣に囲まれていた。廟の近くの戦死者供養仏はユニークな仏像である。また、梵字の彫られた古墳の石棺もあった。
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hello-sijyoさんの絵文字  宝篋印塔 cha-meさんの絵文字    Hokyo-in-to Statue
寺を出ると、野口村の道路元標に気が付いた。その先には県指定文化財の宝篋印塔がたっていた(11:30)。昔から和泉式部の墓だといわれているそうだ。「あらざらむこの世のほかの思い出にいまひとたびのあふこともがな」という和歌が有名。彼女の墓は日本に十数か所あるそうだ。
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cha-meさんの絵文字  おりいの清水 hello-sijyoさんの絵文字    Old Well
宝篋印塔の先には、住吉神社とおりいの清水が案内されていた(11:35)。街道沿いに次々といろいろな寺社や石造物などが現れるので楽しい。さて街道が国道2号線と合流した平野東の交差点で、我々は鶴林寺へ寄り道をするため、街道を離れ、左折した(11:40)。自動車道の両側を松の木が並びきれいに植込みがされている。この道はかつて国鉄高砂線が走っていた線路後で、加古川・野口・鶴林寺と駅が並んでいたらしい。
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hello-sijyoさんの絵文字 鶴林寺 cha-meさんの絵文字  Kakurinji Temple
鶴林寺までの道は結構遠かった。到着すると(12:05)、しかし、入山料が必要だった。500円と開催中の「黒田官兵衛と鶴林寺」特別展示入場料で800円だった。高句麗の僧、恵便法師が、物部氏ら廃仏派の迫害を逃れてこの地に身を隠しておられたので、聖徳太子が法師の教えを受けるため、この地に来られた。587年、秦川勝に命じて精舎を建立し、刀田山四天王寺聖霊院と名付けられたのが、当時の始まり。「播磨の法隆寺」と呼ばれる文化財の豊富な寺である。仁王門から中に入ると正面の本堂に石畳の参道が続く。右手に太子堂、鐘楼、観音堂が、左手には三重塔や行者堂などが建ち並ぶ。本堂前に菩提樹が植えられ、実をつけていた。
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cha-meさんの絵文字  太子堂 hello-sijyoさんの絵文字  Taishido Hall at Kakurinji temple
鶴林寺の国宝太子堂は、本来法華堂とよばれ、天永3年(1112)鳥羽天皇の発願によって、播磨地方の有力豪族が建てたものといい、兵庫県下最古の建築であるばかりか、我が国に現存する数少ない平安時代の遺構だという。壁や柱に描かれていた壁画が。赤外線写真でよみがえり、板絵の涅槃図は日本最古である。買い求めた絵葉書の一枚には、釈迦の死を悲しむ人々と、その頭上には沙羅樹が描かれている。境内の宝物館で官兵衛展を見た。官兵衛の生きた時代に、官兵衛の父、信長、秀吉、官兵衛ら当時の武将たちと寺の関わりを示す文書ばかりである。鶴林寺の境内で昼食を食べた。
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hello-sijyoさんの絵文字 子ども相撲大会 cha-meさんの絵文字  Sumo Wrestling Championship
今にも雨が降りそうな黒い雲が垂れているが、雨にはならなかった。外に出る。鶴林寺に来た道とは別の道を辿って、旧街道に向かう。途中粟津神社では夏祭りが開催中で、小学生による相撲大会が模様されていた(13:33)。当節、相撲大会とは珍しい。保護者と思われる人に尋ねると、もうずっと長い間大会が行われているとのこと。
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hello-sijyoさんの絵文字 称名寺cha-meさんの絵文字    Shomyoji Temple
加古川駅前の交差点からベルデモール加古川の商店街を少し辿り、再び旧街道に入る。ちょっと西に進んで、を目指した。国道2号線を横切って地元の人たちに尋ねながら辿りついた。仏頂山称名寺と刻んだ大きな2本の石柱の奥に寺の屋根が見える(14:02)。上さんの案内に「聖徳太子により開山されたと伝えられる。鎌倉時代、領主の糟屋有教が加古川城をこの辺りに築いたころから、称名寺は糟屋氏の菩提寺になった。足利尊氏の軍勢と戦ったとされる七人の武将を供養するために立てられた境内の七騎供養塔は文政3年(1820)の建立である。また、天正5年(1577)にはここ加古川城において羽柴秀吉は中国征伐の今後の方針を問うため、評定をした。その直後三木城の別所長治が毛利方に寝返り、三木城討伐が開始された。
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cha-meさんの絵文字  加古川 hello-sijyoさんの絵文字    Kakogawa River
再度街道に戻り西進すると、加古川に来た(14:17)。手前に地蔵堂があり、背の高い地蔵が祀られている。加古川地蔵尊だ。橋を渡り、日本毛織印南工場の前を通過(14:29)。途中右手に折れて、山陽本線や加古川バイパスを西井ノ口でくぐり、加古川東神吉郵便局を過ぎたあたりで神吉の集落に入った。神吉という地名通り、神吉姓のお家がおおい(15:13)。
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hello-sijyoさんの絵文字神吉(かんき)城cha-meさんの絵文字   Jorakuji Temple, the site of Kanki Castle
複雑な集落の道を右に入ると果たして常楽寺はあった(15:17)。上さんの説明では、「ここはもともと神吉城があったところで、天正6年(1578)神吉頼定の城兵千人が守る神吉城を織田信忠・羽柴秀吉の3万の大軍が攻め、激戦の末、落城した」といい、奥の墓地には「神吉民部太輔頼定墓」と彫る石柱がたち、背後に御堂までもがある頼定の立派な墓があった。常楽寺の本堂は大きな覆い屋の中にあり、修復中であった。
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cha-meさんの絵文字  石井の清水 hello-sijyoさんの絵文字  Ishii Well
帰路、上さんは石井の清水を紹介してくれた(15:47)。弘法大師の井戸ともいわれ、諸侯が茶の湯を楽しむために組に来たという。井戸枠に古代寺院の露盤を使っているので、珍しい。都会の旧街道を歩くと暑苦しいが、緑の稲の育つ田圃の間を歩くと、蛙の声が聞こえ、渡りくる風が汗を抑えてくれるので、嬉しい。常楽寺への往復は結構長い時間がかかり、苦しいかったが、やっと宝殿駅に着いた(16:11)。それにしてもよく歩いたものだ。帰路、三国ヶ丘で飲んだビールは格別に喉を刺激し、うまかった。
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