7月27日(日)、5時12分の始発電車に乗って出発、新今宮、大阪、姫路を辿りながら、今日の旧山陽道歩きのスタート地点、JR赤穂線伊部駅に着いた。伊部には9時41分に到着した。随分と時間がかかるものだ。北さんが立ててくれた計画では、今日の目的地は、JR山陽本線上道駅である。距離にして16.1kmの歩き旅だが、この数日厳しい猛暑が続いている。しかし、幸い、曇天のお蔭で、熱中症を避けられた。


tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字   伊部の町並み Imbe Street
青春18切符のお蔭で乗車料金のことをあまり心配せずに来れたが、伊部までは何回も乗り換えて、5時間近くかかった。備前焼の店は、伊部駅の西側にもたくさん並んでいる。古民家風の店もあった。不老川の橋げた、その先にも地蔵石仏の横に備前焼の地蔵さんが並んで立っている。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  大ヶ池・臥龍松  Oga Pond  and a 1ri milestone
街道はやがて山陽新幹線の高架をくぐり、これに並行して進む。東西に長い大ヶ池の上を新幹線が走る。山並みを背景に池上を通過する新幹線を写真に収めようとするが、なかなかタイミングが合わない。待っていると来ないのだ。菱が全面を覆い、蓮の花がところどころ咲いている。山並みをバックに配して何とか撮ったのがこの一枚だ。池のすぐ先の道路右手に、道標が立っている。文字が崩してあり、読み方が難しい。考えをめぐらしながら、昨日作った地図の書き込みを見ると、ちゃんと「臥龍之松」とメモがしてある。「一里塚の跡」ともメモがしてあった。予習が本番で役に立たない。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  福生寺道標  Sighpost for Fukuseiji Temple
大滝山福生寺を案内する石の道標があぜ道に立っていた。右手の熊山の渓谷にある寺で、鑑真和尚開基の寺だという。先の集落では、赤穂線・新幹線・自動車道が2本、計4本が並行して走る。我々はその一番北側の道を歩く。途中、右手の小山に石標がいくつも立つので見ると、戦役紀念碑であった。これまでも忠魂碑・日露戦役紀念碑等々、建てられている。もうこれ以上戦役紀念碑なるものが建立されることのないように祈る。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  大内神社(おおちじんじゃ)  Ochi Shrine
香登(かがと)に来た。難しい読み方だ。香登は、奈良時代に香登荘の記録があり、街道の間の宿として栄えてきたとか。醤油づくりが盛んで、今も店舗が続いている。その香登に大内神社があった。神社の石の鳥居は新しい。左手には石積みがあり、その上に「史跡一里塚」と刻む石標が立っている。ここにはかつて香登一里塚があり、このように塚が残っているのは珍しい。ただし、残っているのは道を挟んで北側の塚だけで、南の塚は、石垣は壊されて、「東町用心井」に使われたという。神社の建物は古びて真っ黒に見える。稲荷やそのほかの小さな社殿が本殿の周りに立ち並んでいる。IMG_2084

tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  古代文字? Lost Chronicles of the Age of the Gods
さて、大内神社の本殿にとても興味を惹かれるものを見つけた。唐破風の下に架かる彫刻だ。真ん中の大きな円の中に、アルファベット状の文字が16個彫ってある。神社にアルファベットなど、これまで見たことがない。円の左は、小槌・掛け軸・菅笠、右には米俵・神寶記とする帳面と筆・布袋が刻まれている。僕は、これを見たあと、しばらくあの文字は何だろうと考えていた。考えながら歩いていると、キリスト教会の前を通ったので、隠れキリシタンと関係があるのではないかと思った。しかし、帰宅して、インターネットで調べると、これらは古代文字の阿比留文字だいう。ハングルに似た文字で、左の掛け軸様の彫刻の文字は、その草書体だという。「オホウチノヤシロ」と読むことが出来るとも。(丸谷憲二大内神社 古代文字「阿比留文字」の考察)
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  醤油屋のソフトクリーム   Soft Icecream with soy sauce taste
神社の妙なアルファベットのことを考えていると、前方に立派な大和づくりの家が見えた。幟が出ていて、「ポン酢ソフトクリーム」と書いてある。北さんの案内では、「醤油アイスクリーム」だったけど。ちょいと中へ入ると、袢纏を着た若者がいて、鳥の空揚げや、漬物などを試食させてくれた。「上海の鳥じゃないだろうな」などと、軽口を言いながら食べたが、空腹には美味かった。上さんはポン酢ソフト、北さんと僕は醤油ソフトを食べた。各々300円。気温が高いので、口にする前にどんどん溶け始め、手を汚さないように食べるのは難しかった。店の名前は「鷹取醤油」、伏見屋市兵衛を略した「伏市」が商標である。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  香登教会  Kagato Christian Church
醤油屋の筋斜め向かいに、地蔵堂があった。そしてその先に教会が立っている。香登教会である。大正12年(1923)建築のものだという。木造の教会で、なかなか立派なものだ。古い和式の建物が続いていたので、教会はかなり異質に見えた。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字   石長姫神社  Iwanagahime Shrine
やがてまた別の神社に来る。基壇の上に自然石を組んだ大きな常夜灯が立っている。「嘉永2年(1849)己酉」の年号がある。奥に鳥居があり、「石長姫神社」と刻む額が懸っている。鳥居をくぐって境内に入る。随身門の中には神像がなく、どちらも「ガドマル様」と記した箱が置かれていた。「ガドマル様」をインターネットで調べたが、反応はなかった。なお、石長姫は、大山祇神(おおやまつみ)の娘で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉にあたる。ブスな(醜い)女神だったそうな。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  火炎を背負った小さなお不動様   Little Acalathe God of Fire 
その先の道路左手に、コンクリートブロックで組まれた頑丈な祠があったが、中を覗くと、随分と小さな不動明王が2人の従者を前に、火炎を背負って坐っておられた。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  香登集落  Kagato Town
香登の集落のはずれ、川のほとりのに常夜燈が立つ。「天保10年(1840) 三月 香登西村中 奉燈 金毘羅大権現 / 瑜伽大権現」と刻む常夜灯が立つ。左の小さな石標には、「森の木橋」と刻んである。橋を渡ると、坂根の集落で、最上稲荷の赤い社殿と鳥居が石段の上下に立つ。森の切れたところに水量たっぷりの用水が流れており、「従是熊山道」と熊山への登山口を案内している。熊山の山頂は標高508m。石積みの国指定の遺跡があり、「熊山ピラミッド」と呼ぶ人もあるとか。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字   備前長船刀剣の里  Hometown of Japanese Osahune Swords
用水を渡ると新幹線の下を通る。国道2号の下の小さいトンネルを通過する。国道の反対側には大きな看板が立てられており、刀鍛冶の絵の下に「ようこそ長船へ 備前おさふね刀剣の里」と書かれている。我々は昼食の場所を求めて、ちょっとだけ街道をそれて、その横にある神社へ行くことにした。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  靭負(ゆきえ)神社  Yukie Shrine
神社の境内を横入りする形で、神社へ入っていく。入口に「備前長船刀釼発祥之地」と彫る大きな石柱と、横に「郷土記念物 天王社刀剣の森」の案内も。案内に曰く、「この森の松は足利尊氏ゆかりの松で、その昔(1331年)に新田義貞に破れ、九州に落ちる途中、この地で再起を祈願した尊氏が後に願いが叶ったお礼に、九州日向から持ち帰り寄進した松の子孫とされ」、日向松と呼ばれているという。我々は境内で、蚊に食われながら昼食を食べた。僕は、おにぎりを3個、喉に押し込ぶように食べた。さてこの神社の名前であるが、北さんの案内では「鞆負神社」と書いてある。僕も北さんも「ともおい」じゃないか、と考えていた。おにぎりを食べて元気が出たので、随身門をくぐり、奥へ行くと、拝殿横に張り紙がしてあり、「神社名は『靭負(ゆきえ)神社といいます。通称名は『天王社』」と書いてある。「鞆」と「靭」はよく似ている。どちらにしても「ゆきえ」とは、読めない。この辺りは、かつて「福岡」と呼ばれ、黒田官兵衛の祖父が城を築いた所だが、街道脇にはそれを示すものが見当たらなかった。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  備前大橋  Bizen Great Bridge above Yoshii River
昼食が済み、国道2号に戻る。吉井川の堤防にあたる国道2号は、車の交通が激しく、暑さも厳しいので、長い苦難の道であった。閉じられた大型店舗など殺風景で、歩道の自分の背丈ほど伸びた草の間を黙々と歩いた。、道の反対側に、明治天皇行幸記念の石造物があったが、道を横切ることは危険で、見るのを諦めた。かなりの時間歩いたあと、2号は右折し、備前大橋を渡る。長船の刀の鍔を模したものが欄干の端につけられている。川を渡ってくる強い風で、帽子や傘を飛ばされないようにしながら、向こう岸に渡った。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  一日市集落  Hitoichi Town
橋を渡ると、岡山市東区と表示がある。国道をしばらく歩いて、右手の一日市(ひといち)の集落に入るよう、右手に国道と別れる。来た道にいろいろと見るべきものがあったようだが、暑さの中、引き返すことなど考えられない。前進あるのみ。一日市の入り口には、常夜燈が残っていた。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  御休小学校・福岡神社  Miyasu Grade School and Fukuoka Shrine
一日市には古い大きな日本家屋がところどころに残っている。かつては川止めを食らった大名などで、本陣や旅籠が賑わったという。用水の流れる田圃道に、「旧山陽道」と書かれた木柱が立っているが、昔の賑わいなど全く感じられない。岡山市立御休(みやす)小学校があり、校庭で野球をやっている。門があいていたので、上さんは日陰で休みたいと言って、どんどん中に入っていった。藤棚があり、日陰で風が通る。トイレも使えて、文字通り休息ができた。正門前に「二宮金次郎像」があり、学校の創立120周年記念に贈られたとしてあった。平成5年のことで、今でも「金次郎」が立てられるのが面白かった。学校の隣に「福岡神社」がある。街道筋で、官兵衛の祖父に由来する「福岡」の名を具体的に見たのは初めてだ。長船・福岡は山陽道と吉井川が交差するところで、備前国守護職の所在地であり、山陽道随一の商都であった。「福岡千軒」の賑わいと称されたが、その後、吉井川の氾濫により町並みの大部分が川底に沈んだらしい。浦間茶臼山古墳の案内があった。0.6kmという距離に怯えて、北さんの計画を踏襲しなかった。ご免なさい、北さん。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  楢原  Narahara town
用水路に沿って街道を進む。「山の端」のコンビニに飛び込んで「ガリガリ君」を食べた。一本食べ終えると、汗が引いていた。楢原の陸橋前を左折、楢原の集落に入る。左手に天保13年(1842)の和田八幡宮の灯籠が一対見える。その先に「右神戸大坂道 左岡山広島道」と刻む道標がある。
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gkjmyhさんの絵文字 tukusi-miyukiさんの絵文字  上道(じょうとう)  Joto Town andJoto Station
砂川という川を渡ると茂みの中に上道(じょうとう)公園があり、休憩をとった。公民館があったので、許しを得て図書室でしばし体を休めた。椅子に腰かけると、疲れがとれるように感じた。長いは無用と促されて外に出ると、陽射しが熱い。上道中学校を過ぎると、建物はなくなり、樹木の影を探し求めながら、傘をさして歩いた。沼の集落に入る。2号線に沿ってしばらく歩いて右折し、山陽本線に近づいて行く。線路を渡ると、今度は新幹線の高架し沿って西に進む。その高架の途中にJR上道駅の案内表示が見えてきた。駅の改札に入ると、数分後には相生行きの列車に乗り込んだ。緩やかな冷房で、汗が引くまでかなりの時間を要した。
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tukusi-miyukiさんの絵文字 gkjmyhさんの絵文字  後記 
それにしても、上さん、北さん、皆さんのお元気なこと。遅れないようにと、ついていくのが精いっぱい。今回は、まったく足の痛みがなかったことが幸いしたが、何よりも、熱中症などにならずに無事帰阪できたのが、最高。次回は、8月の6日、上さん、北さん、よろしくお導きのほどよろしくお願いいたします。