HIRO'S WALKING DIARY

今日はどこまで行ったやら 

中山道(Nakasendo)

中山道を歩く 加納~鵜沼~太田 (中山道全コース達成!!)

上さんと13日に引き続いて中山道を歩いた。岐阜は加納宿から長い長い鵜沼宿への道(約18km)を早足で歩き続け、更には太田まで(約8km)足を伸ばして、念願の中山道の旅を完成した。今日は、家を6時に出て岐阜に着いたのは9時50分、行脚を終えて美濃太田駅に到着したのが5時30分。と言う事は、7時間40分歩いていたことになる。(ようやるわ!) 上さん、山さんという先輩が一緒に歩いてくれたことが、旅をゴールに持ち込めた最大の要因で、両氏に心より感謝の意を表する次第である。

拍手乾杯拍手 岐阜駅と加納宿本陣跡
家を出て岐阜駅までおよそ4時間。駅の南口から地図を片手に歩き出す(9:45)。加納栄町通を中山道という表示で左折、加納天満宮を覗き、脇本陣、西問屋場跡などを辿って行くと、やがて松波本陣跡碑が真新しい住宅の玄関口にあった。皇女和宮がこの本陣に滞在した時に詠んだ直筆の歌碑もある。「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立うかりけり」(10:00)
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拍手乾杯拍手 加納城
「加納宿六曲がり」とかで、曲がりくねった道を時々間違えながら進む。水薬師に立ち寄り、大手門跡の碑を見たからには加納城も見ましょうということになって、岐阜大学付属小中学校横を通り、道草をして加納城跡の見学。石垣が残る。岐阜といえば金華山上の岐阜城を思い浮かべるが、ここ加納城は、徳川家康が西の抑えとして、1602年から造らせたとか。初代城主は家康の娘・亀姫の婿、奥平信昌。城を背景に大名行列を描いた浮世絵が街角にあった。「加納景観まちづくり実行委員会」発行の「加納」という小冊子によると、城の下には中世の加納城が埋もれているらしいとのこと。(10:20)
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拍手乾杯拍手
ぶたれ坊と茶所
冊子「加納」には、戦争体験談も掲載されているが、加納宿は戦火に見舞われ宿場の雰囲気はほとんど残っていない。とにかく「六曲がり」を地図に沿って辿る。地図といえば、街道筋のあちこちの民家の前に地図が入ったファイルが置かれて自由に取ることができる。「中山道加納宿文化保存会作成」としてあり、このような地域住民の取り組みは、我々旅人には嬉しいサービスである。宿のはずれが茶所(チャジョ)だが、そこに「ぶたれ坊と茶所」の案内があった。曰く、「江戸時代の鏡岩浜之介という力士は、土俵外での所業が悪かったことを反省して寺を立て、ぶたれるために等身大の自分の木造を置いて罪滅ぼしをし、さらには茶店を設けて旅人に茶を振舞った」と。 朝青龍もすればいいのに。(10:45)
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拍手乾杯拍手 細畑の追分
次々と通過する電車のためになかなか開かない名鉄茶所駅横の踏み切りを渡ると、加納の宿とはお別れ。次の鵜沼宿までは17kmもある。加納宿で少々時間を食ったので、あとは歩行速度を速めてひたすら歩くことにする。とにもかくにも鵜沼を越えて、太田宿まで行かなければならないのだ。やがて細畑に至る。追分で地蔵堂の横に見事な道標が立っている。「伊勢名古屋ちかみち」と読める(11:00)。更に進むと細畑の一里塚が、道路を隔てて2基とも綺麗に残っている。両方の塚の前には「祝中山道一里塚404年」と細畑自治会が掛けた横断幕が風に揺れている。400年ではないところが面白い。細畑(ホソバタ)には古い町並みが良く残る。
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拍手乾杯拍手 手力雄神社
長森細畑で交差する道は越前街道だが、北方に金華山と山頂の岐阜城が見える。細畑から切通(キリドウシ)、蔵前と辿ると赤い鳥居が道路の半分を塞いでいる。後に見る手力雄神社の鳥居だ。鳥居に掛かっている異形の注連縄が目を引く。天手力雄命は天照大神が隠れた岩戸を外からこじあけた力持ちの神様だ(11:30) 。神社横の細道を曲がりくねった道なりに進むと高田集落に入る(11:45)。ここでも民家の前に、中山道ウオーキング案内のファイルが置かれていて、鵜沼宿と加納宿間があまりに長いので途中に設けられた「間の宿・新加納」の案内が書かれている。
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拍手乾杯拍手 間の宿・新加納宿
ここはもう各務原市で、那加新加納町という。入り口に道祖神を持つ善林寺近くの民家では、日当たりの良い縁側にお婆ちゃんが座っている。帽子を脱いで挨拶すると、おばあちゃんも頭を下げて返してくれた。宿の中心に来ると古い民家が並ぶ(12:05)。鈎型の辻を巡ると、新加納立場に出た(12:07)。日吉町である。横の民家前には種々雑多のものが並べられて、異様な雰囲気(12:10)。
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拍手乾杯拍手 各務原から鵜沼へ
腹が減ってきた。各務原市民公園で昼食。鳩が寄ってくる。上さんにもらった「いよかん」が旨かった。国道21号線に合流すると騒々しいこと限りがない。川崎重工の工場を見ながら高架を降りると三柿野駅に出た(13:16)。駅員に頼んでトイレを借りる。国道脇には「ねずみ小僧」などという食堂があった。この辺は「ねずみ小僧」に関係があるとか。そして、真っ赤な馬の看板が(13:45)。JRの高架を渡ると鵜沼羽場(ハバ)町の交差点に来た。やっと鵜沼だ!(2:05) ここで21号線と分かれる。
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拍手乾杯拍手 鵜沼宿
鵜沼の宿は街並みが短かい。案内パンフも無い。鵜沼は52番目の宿場である。狭い道路沿いには往時をしのばせる家並みが残る。脇本陣跡には芭蕉の句碑がある。英泉の浮世絵「鵜沼の駅従犬山遠望」がレリーフとして飾られていた。大安寺大橋(小さい大橋だ)を過ぎ、自転車のおばちゃんに聞くともう鵜沼宿ははずれに来ているという。そういえば常夜灯があった。あっけない鵜沼宿の街並みだった。
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拍手乾杯拍手 うとう峠
常夜灯から先へ進むと「うとう峠」への道標がある。「ここは中山道鵜沼宿、これよりうとう峠」と書いてある(2:45)。太田宿へ行くにはこの「うとう峠」を越さねばならないのだ。だいじょうぶ今日中に家に帰れるか知らんと、不安に駆られながら進む。住宅地を通過し、大きな沼(これが鵜沼?)の横を行くと、「日本ラインうぬまの森」という看板。木造の新しい図書館があり、中山道の豪華なパンフレットをもらうことが出来た。これに従い峠道を辿る。綺麗に石畳が敷かれた峠道だが、うとう峠の「うとう」は「疎う」と書き、「よそよそしい・気味の悪い」という意味なのだそうな。一里塚前からどんどん下っていく。登りじゃなくて、ラッキ~。うとう峠は、江戸から来ると中山道最後の地道の峠だということ。中山道最終日の我々にとってもこれが最後の峠。楽しんで歩く(3:20)。が、じきに峠道は終了。水路を兼ねたトンネルを潜り、急な階段を上がると、国道21号線へ出た。ここは加茂郡坂祝町。
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拍手乾杯拍手 太田宿
国道の右手下には木曽川が流れ、ライン下りを楽しむ船が見えた(3:30)。国道の右端を歩くが、危険極まりない。やがて整備された木曽川の堤防を歩けるようになり、景色を楽しみながら進む。左手下には大きな民家の間に坂祝駅への看板。「取組(トリクミ)」という地名がある。やがて、中山道とはずれそうになり、再び国道に戻ると「酒倉」という地名。どんどんどんどんひたすらに歩く。やがて深田神社の石碑があり、我々は国道から離れ、また木曽川の堤防に近づく。太田橋の架かる辺りが太田の宿の中心である。道を尋ねると、自転車に乗ったおばちゃんは、我々の進む方向に自転車を返してしばらく案内してくれた。「坪内逍遥さんは偉かったんだよ」とか「本陣はそこの資料館の奥だよ。資料館は只(タダ)だから入って見学しなよ」なんて教えてくれる。おばちゃんと別れて資料館に入ったが、閉館10分前で、復元された宿場の様子を急いで見て回り、資料館を出た。夕暮れが迫り、斜めからさす太陽光に照らされて街並みがいい感じだ。本陣跡、旧太田脇本陣林家住宅(国指定重要文化財)などを見る。最後に祐泉寺を見て美濃太田駅へ。駅に到着してホームに降り立つと同時に岐阜行きの列車が出てしまい、30分近く待つことに。その間を利用して、ホームの待合所でビールで乾杯。中山道全行程の終了を祝った。
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中山道の旅 垂井~赤坂~美江寺~河渡~加納

上さんと中山道の垂井から加納間を歩いた。家を出てから帰宅するまでおよそ40,000歩。一日の行程にしては長すぎるが、何とかあと一回で中山道全行程を通過した実績を作りたいと、必死に近い形相で歩いたのだ。ただ、河渡(ゴウド)を通り鏡島に抜けた所からは、岐阜駅に至る中山道を見失い、でたらめを歩いてしまった。上さんも僕も疲れ果て、その上大垣駅ホームで喉の渇きをビールで癒したために、米原駅に着いたときは誰かが終点ですよと教えてくれてやっと眼を覚ましたほどだった。

おにぎり 垂井宿東の見付跡に立つ垂井宿の案内板
モダンな垂井駅を降りて北に進むと中山道に入る。垂井宿の大きな案内板。ここは東の見付跡でもある。垂井宿の出口(江戸から来る人には入り口)であり、横には相川が流れ、江戸時代には人足の渡しで向こう岸に渡ったとか。水量の少ない川底を見て、これならズボンをめくって渡れそうに思った。(9:45)
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おにぎり 青墓の宿
垂井駅から1時間ほど歩くと、小さな川の土手に青墓宿と書いた木の道標が立っている。青墓なんて地名として不思議だと思うが、読み方は「オオハカ」らしい。それでもおかしな名前には変わりはない。青墓は平安時代には賑わった宿場だったいう。「よしたけあん」「小篠竹の塚」の案内がある。「よしたけあん」に関して曰く、「牛若丸が奥州へ落ちのびるとき、当地で父や兄の霊を供養し、源氏再興を祈ったが、杖にしてきたよしを地面に刺し、『さしおくも形見となれや後の世に源氏栄えばよし竹になれ』と詠んだところ、願いが通じ、よしは芽を出して根を張り、みごとに竹の葉が茂った。これによってこの竹を吉竹と呼んだという」(10:25)
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おにぎり
昼飯町の看板と如来寺
東海道本線の高架を潜る。中山道を歩いているのに東海道線とは?とこれも不思議(デモナイカ)。潜るとすぐ交差点があり、昼飯町とある。地名とは面白いものだ。如来寺の入り口へくると「昼飯」の由来がわかった。曰く、「昔、善光寺如来という仏像が、大阪の海から拾い上げられ、長野の善光寺へ納められることになった。その仏像を運ぶ人々が、青墓の近くまで来たときは五月の中頃で、近くの山々は新緑におおわれ、つつじの花が咲き乱れすばらしい景色。善光寺如来を運ぶ一行も、小さな池のそばで、ゆっくり休み、美しい景色に見とれた。一行はここで昼飯(ひるめし)を取ったが、以来、この付近を昼飯(ひるめし)と言うようになったという。しかし、その名が下品だと考えられ、飯の字を「いい」と音読して「ひるいい」と呼んだが、「いい」は言いにくく、一字を略して「ひるい」と呼ばぶようになった。また、ここの池は、一行が手を洗ったので、「善光寺井戸」と言われ、記念に植えた三尊杉の木も最近まで残っていたという」案内板の最後に大垣市立青墓小学校とある。学校が地域学習の一環にこういう看板を立ててくれたのだろうか。辿っていく道路沿いの民家の大きいことには驚かされた。御殿のような建物が続く。ここは石灰石や大理石の産地だというからそれのためかも。(10:45)
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おにぎり 赤坂宿
赤坂西公園、大久保駅から美濃赤坂駅へ向かう今は廃線となった線路を過ぎると、本格的に赤坂宿に入る。先ずは兜塚。曰く、「関ヶ原決戦の前(1600年9月14日)、杭瀬川の戦に笠木村で戦死した東軍、中村隊の武将野一色頼母を葬り、その鎧兜を埋めた」と。街並みが素晴らしい。と、車を止めて私たちに男の人が話しかけてきた。「芭蕉と出会う街 大垣」としたガイドブックを差し出し、「今日は案内できませんが、いつでもどうぞ」と名詞もくれる。折戸さん、有り難う。宿場の駅「五七」でさらにパンフレットをもらおうとしたが、不在。入り口は開いていたのに。脇本陣、谷汲巡礼街道の起点の石標、石灰工場へ続く踏切を通過して、やがて赤坂港に至る。大きな常夜灯(火の見櫓?)の下に大理石を敷き詰めた赤坂港が保存されている。警察署だったという赤坂港会館も大理石造り。宿のはずれには大きな広重の絵が壁に貼ってあった。いろいろなものに目を取られて、本陣に気付かずに通ってしまったが、後の祭り(上さんは、ちゃんと見届けたらしい)。赤坂宿を後にする。(11:20)
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おにぎり 七回り半
ゲンジボタルが生息するという杭瀬川を渡り、一里塚、近鉄養老線踏み切りを通過。やがて道路が田園地帯に入って行く。七回り半という道標があり、そこからは田んぼの中を道がくねくねと曲がって進む。途中に道標の役目をする聖観音像が立つ。県道のトンネル下に同じ「七回り半」が立っており、そこまで曲がりくねった道が続いていた。僕は「七回り半」を「三下り半」と連想して、こんなに出歩いて、相方から離縁状を突きつけられやしないかと、ちょっとだけ心配した。(12:00)
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おにぎり 平野井川の土手に立つ道標
県道のトンネルを潜って道なりに進むと平野井川の土手に至る。土手の下の小さな公園のベンチで昼食。巻き寿司だ。小休止の後、歩行開始。平野井川の土手の道標には「左木曽路右すのまた宿道」とある。土手と道標がマッチして好きな写真になった。この辺りは安八郡神戸町。神戸はゴウドと読む。
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おにぎり 呂久小簾紅園
やがて小簾紅園に来る。ここは呂久の渡しの渡船場の跡だと言う。この後「鷺田橋」を歩いて揖斐川を越えるのだが、かつて揖斐川は、この小簾紅園の赤坂側を流れておりこの紅園が渡し場だったという。暴れ川の改修で現在の姿になったが、これを記憶するため小簾紅園が整備されたという。小簾紅園の案内には、皇女和宮はここから川を渡るとき、綺麗な紅葉の小枝を舟に飾って渡ったと書かれていた。「おちていく身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこそすれ」と和宮は詠んだが、歌の心が改めて伝わってくる。揖斐川を渡って巣南町へ入る。(13:15)
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おにぎり 美江寺宿
揖斐川の橋を渡ってすぐ左折をし、田んぼの中を歩くようにと手にしているマップにはあるのだが、間違ったらしい。結局美江寺宿には途中から入る形になった。最近整備されたと思われる道路横には、富有柿の木が綺麗に手入れされて並んでいる。また岐阜市巣南町庁舎の広く大きいことに驚いた。赤い橋の架かる犀川を渡り、断片的には通ったみたいだが、正しく中山道を辿れなかった。揖斐川と長良川に挟まれた美江寺は、水害に悩み、輪中を発展させたが、美しい江になるようにと昔の天皇がここに美江寺を建てたことに由来するという。なんとか美江神社にたどり着いた。神社の奥には美江寺観音堂、手前には庄屋の立派な建物。本陣跡の道を庄屋の建物前にいるおじさんに尋ねると、おじさんこそがこの和田家の筋の人で、かつては広大な土地を持っていたという。家屋は美濃地震で崩壊したあと再建したもので110年経つとか。我々は鍵形の宿場町を進んでいく。
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おにぎり
瑞穂市、樽見鉄道の踏切、五六川を渡り、河渡(ゴウド)宿に近付いていく。集落に入ると本田(ホンデン)代官所跡があり、長い土塀を持つ立派な門構えの家などは旧街道の趣があって素晴らしい。大きな生津(ナマヅ)小学校の横を過ぎて暫く行くと河渡の一里塚。ここで街並みは途切れ、目前に長良川の堤防が迫る。「河渡の渡しは今日も営業していますか」と町外れの自転車やさんに尋ねると、「よく道行く人に尋ねられるが、わからない」という。それでも仕事の手を休めて、河渡の街並みは火事に見舞われ、長良川の堤防建設のために削り取られて小さな街になってしまったと話し、必ず馬頭観音は見て行きなさいと薦める。(15:10)果たして立派なお堂に収められた、立派な馬頭観音を見ることが出来た。河渡の渡しは観音堂から長良川を渡り、さらに上流へ20分ほど歩いた砂州にあった。若い男女が船着場に遊んでいたが、船は向こう岸に舫ってあった。大声でよばわれば、船頭さんはこちらへ着てくるとのことだが、旅を急ぐ身、場所を確認しただけで、鏡島方面に向かう。(15:45)
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おにぎり岐阜駅で帰阪
穂積を最後に帰路に着くはずだったのに、後の段取りを考えて、さらに足を伸ばして岐阜駅に向かった。岐阜は加納宿だが、宿見学はもうやめてひたすら岐阜に向かう。ただ、今となってはどこをどう通って岐阜にたどり着いたか、さっぱりわからない。あちこちで人に尋ねて、岐阜駅の高層ビルを目指してひたすら歩いた。歩き始めて7時間30分、駅の改札を抜けたのは5時だった。旅の始終を家の者に話すと、「馬鹿なことを」と叱られた。これからはあまり話さないでおくことにする。
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中山道の旅 醒ヶ井~垂井(2)

さて、旅の続き。天候が回復し、傘をささずに歩けるようになって嬉しい。さらに嬉しいことは、いろいろな人との出会いがあったことだ。旅の醍醐味は、当地の人と触れ合うことにある。ゆっくりと話を聞こう。

雪黒血川雪
関ケ原町山中を進んでいく。東海道線の走るガードから続く細い川の土手に案内が立っている。曰く、「壬申の乱(672)でここ山中は両軍初の衝突が起きたところ。7月初め大友軍は精兵を放ち、玉倉部邑(タマクラベノムラ)を経て大海人(オオアマ)軍の側面を衝く急襲先方をとったが、大海人軍はこれを撃退し、その後この不破道を通って近江へ出撃していった。この激戦で両軍の兵士が流した血が川底の岩石を黒く染めたことで、そのときの凄まじい様を今に伝えている」(*壬申の乱天智天皇(中大兄皇子が即位)が没すると皇位継承をめぐって天皇の子の大友皇子と、天皇の弟の大海人皇子が対立、壬申の乱が起こった。大海人皇子が勝利し、継承して天武天皇となった)
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雪82歳の史跡ガイドさん雪
山中集落の細い道を進むと国道に出た。陸橋を渡るのが面倒で、車のと切れを確認して、反対側に行くと、小型車が止まって窓から顔を出している。やばいかなと思うと、「中山道を歩いているんですか。この今行く細道は本当の中山道ではないのです。この下の道、向うの民家の前を通り、田んぼのあぜになっている道から、この土手の下に続く道が中山道だったのです」とおじさんが説明を始めた。嬉しいことで案内を聞くと、次々と車を回して、周囲を説明してくれた。ここ不破の関は壬申の乱の舞台であり、また、天下分け目の関が原の戦いの地。二つ向うの峰が小早川秀秋が陣取った松尾山だとも教えてくれた。この方、Iさんはせきがはら史跡講座指導者をされている方。82歳という。
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雪自害峯(ジガイミネ)の三本杉雪
Iさんの案内で、町天然記念物とされた弘文天皇御陵候補地を見学。近江の瀬田大友軍は敗退。自害した大友皇子の首がここに埋められたと伝えられ、御陵候補地になっている。三本杉がしるしである。見学後、さらにIさんは、旧道を車で辿りながら案内をしてくれる。大海人皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘った「矢尻の池」、壬申の乱で両軍が両岸に対峙し、また時を隔てて関ヶ原合戦で大谷吉継が布陣した「関の藤川(藤古川)」、藤古川を西限として利用した「不破関西城門(ニシキモン)」などを次々と案内してくれた。案内がなければ、そのまま何も知ることなく通過しただろう。感謝感謝である。I氏の勧めで、不破関資料館を見学。100円。不破関は、東海道の鈴鹿関、北陸道の越前愛発(アラチ)関と合わせて古代律令時代の三関だったところ。これは壬申の乱後造られ、789年には廃止されたのだそうな。
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雪西の首塚と福島正則陣跡雪
関ヶ原は天下分け目の戦いの地。上さんは、小早川の裏切りが大阪の衰退の原因だと憎憎しげに口にする。不破関資料館でもらった資料では、決戦コース、天下取りコース、行軍コースの3つに分けてウオーキングできるようになっている。この地を歩けば戦国武将の夢と浪漫が見えてくるというわけだ。我々は宿場をつないで歩いているので、あまり寄り道をしないことにした。ただ、中山道そばにあるということで福島正則陣跡だけを訪ねた。東軍の先鋒となった福島正則(約6000人)は、ここで南天満山の宇喜田隊と対峙した。一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされ、正則自ら鉄砲隊を指揮し、宇喜田隊に一斉に射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防が続いたという。また、中山道を東に少し進むと、西首塚がある。合戦死者の首級を葬ったところ。
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雪関ヶ原たまり工場雪
国道21号線に出て旧道を見失ったようだが、東公門(ヒガシクモン)交差点に関ヶ原たまり醸造元があった。宮内庁御用達の字が残る。たまりとはたまり醤油のこと。建物が素敵だ。
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雪桃配山(モモクバリヤマ)と松並木雪
国道を横切り松並木を歩く。若木なので後に整備されたものだろう。やがて「桃配山徳川家康最初陣跡」の看板。桃配山の名は、壬申の乱のとき、天武天皇がここで陣を張り、兵隊に桃を配り快勝したことに因んでいる。家康はこの話にあやかり、桃配山に陣をしき、一日で天下をものにした。国道の左手に松並木が続く中山道に戻る。この松並木(関ヶ原町天然記念物)も大きく美しい樹形が楽しい。六部地蔵を拝んで東に進む。
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雪垂井の一里塚雪
どこで手にしたのだろうか。手元にある美濃赤坂から、醒ヶ井までの地図が役に立つ。中山道沿いの食べ物やさんが造った細長い地図だが、ややこしい所は別の枠を設けて詳細に記してくれてある。お蔭で不破ノ関病院周辺のややこしい所も難なく通過し、垂井の一里塚に来ることが出来た。この一里塚は南側の一基が完全な姿で残り、国の史跡に指定されている。国史跡は、中山道では東京板橋区志村の一里塚とこれの二基だけだという。近くには関ヶ原の戦いの浅野幸長陣跡もある。
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雪垂井の和泉と休憩所の人たち雪
いよいよ垂井の宿に入ってきた。八尺堂地蔵尊道の石碑の前を通って、垂井宿の西の見付跡に至る。ここから描いたという安藤広重の絵も置かれている。本龍寺は大きく、通りかかった人の勧めで、中に入ると時雨庵を見学。芭蕉が奥の細道の2年後にやってきて冬を過ごしたという。長浜屋という無料休憩所は入り口が閉鎖されて入れなかった。しかし反対側のモダンな休憩所のおじさんに声をかけられ休憩。ボランティアたちで運営する喫茶があり、コーヒー一杯100円。ふたりのおばさんとおじさんたちと雑談。またもや、彼らの勧めで主要な史跡を見学することが出来た。その第一が垂井の泉。県指定天然記念物の大ケヤキの根元から湧き出す泉は、垂井の地名の怒り出そうな。芭蕉の句碑もあった。「葱白く洗いあげたる寒さかな」清水で洗われた真っ白な葱が寒空に凛として見えてくる。うまいこと詠むなあ、芭蕉は!!
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雪垂井の本陣跡雪
古い民家が道路の両側に並ぶ。休憩所のおじさんやおばさんに、本陣跡を尋ねたが知らなかった。が、南宮大社の鳥居を過ぎ、栄松堂という菓子屋さんの横に本陣跡の看板が立っていた。それによると、「寛政12年(1800)の記録によると、坪数178坪、玄関や門、上段の間を備えた広大なもので、本陣職を務めた栗田家は酒造業も営んでいた。建物は明治時代現在の垂井小学校の校舎に利用された」
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雪垂井駅雪
これで今日の行程は終わり。垂井駅に到着。万歩計によると、朝から30000歩歩いたことになる。65cmとして20km近い歩行距離だ。ご苦労さん!車中で上さんと乾杯!
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中山道の旅 醒ヶ井~垂井(1)

青春18切符が今日から利用開始となり、活動再開だ! 上さんと誘い合わせ、中山道を醒ヶ井から江戸に向かって歩く。生憎の天気で、醒ヶ井駅を降りると降り積もった雪の中を、冷たい雨に降られながらの行脚となった。

雪西行水と泡子塚雪
醒ヶ井駅前の「醒ヶ井水の駅」で案内パンフをもらい、旅を開始。前回の旅の終わりにビールを買った雑貨やさんの前を通って中山道に入る。まずは西行水。大きな湧き水で石積みの間から水が流れ出している。泡子塚の説明に曰く、「東国への旅の途中に西行法師が、ここにあった茶店に立ち寄ってお茶を飲んだが、法師が飲み残したお茶の泡を飲んだ茶店の娘が不思議なことに懐妊し、男の子を出産。帰路にこの話を聞いた西行が「もしわが子なら元の泡に返れ」と念じると、子はたちまち消えて元の泡になった。これを見た西行法師はここに五輪塔を建て、『泡子墓 一煎一服一期終 即今端的雲脚泡』と記した」上さんと、「西行さんもなかなかやるな」なんて、話しながら進む。
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雪地蔵川の流れ雪
醒ヶ井の街を流れる清流。居醒の清水が源流とか。緑の梅花藻も居醒橋の上から見えた。清流に恵まれたこの街の人々は幸せだね。居醒の清水の曰くは次の如し。「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせていた。そこで天皇は日本武尊にこの大蛇を退治するよう命じた。尊は剣を抜いて大蛇を切り伏せたが、大蛇の猛毒が尊を苦しめ、やっとのことで醒井の地にたどり着き、体や足をこの清水で冷やすと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子が回復。以来『居醒の清水』と呼ぶようになった」 醒ヶ井は中山道61番目の宿場。旧問屋場が公開されていた。入場料が必要だったみたいだが、入り口から見学。さらには本陣跡など見て進む。
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雪梓の松並木雪
「左中山道」と彫ったでかい石碑が醒ヶ井の東の出口。越えるとすぐ右手には山東庁舎がある。暫く歩いてホテルリスボンの横を通って東進するが、この辺りのホテルの豪華なこと。この種のホテルには行ったことがないが、一泊3~4千円なら、カプセルホテルより安価かとも思う。その梓区には松並木が保存されていた。梓は「落葉高木で、今のキササゲ、アカメガシワなどがそれだという」と金田一京助さんが説明している。菰が巻かれた松が寒そうだった。
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雪ベンガラ格子の家と雪景色雪
河内梓という地名の人家の少ない山道の舗装道路を進む。「番の面(オモテ)」という縄文時代住居跡が案内されていた。やがて柏原に入って行く。ベンガラ格子の家があった。「やくし道・道標」が立つ。明星山明星輪寺泉明院は、通称西やくし寺と呼ばれ、昔は賑わった。この道標は享保二年(1717)に建てられたもので三字体という非常に珍しいものとか。また田んぼの道になる。雪が一面を覆って寒々とした景色だ。北畠具行卿の墓の案内がある。この人誰?
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雪復元・柏原一里塚雪
楓と松の並木を通って進むと、田んぼの中に柏原の一里塚があった。かつてこの辺りに北塚、南塚があったが、川をつけたりして壊され、この場所に復元されたものだ。日本橋から115番目の一里塚だそうな。
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雪伊吹堂雪
やがて常夜灯があり柏原の宿に入る。大きなカーブを描いて民家が並ぶ。「郷宿跡」と案内がある民家が眼に留まる。街並みは結構長く、かつて規模が大きかったことが想像される。火のみ櫓の立つ交差点付近には柏原御茶屋御殿跡の案内がある。徳川家康・秀忠・家光三代の将軍が上洛するとき、宿泊や休憩で計14回使用したという。跡だから、今は現存しない。「やくし道・道標」がまた立っている。右手に朽ちかけたうだつのある家は柏原銀行跡とある。柏原宿歴史館は有料で入館せず。ただ、建物は国の有形文化財に指定されているとあって、豪壮そのもの。何枚か写真を撮った。その筋向いの建物が福助で知られた伊吹堂。残念ながら福助の像は見られずだった。左右に展開する街並みを見ながら柏原宿もいよいよ東のはずれに。寝物語の里の石碑が立つ。008e8a37.jpg

雪寝物語の由来雪
幅50cmほどの水の流れる溝を挟んで、近江と美濃の国境となっている。昔、この溝を間に並ぶ二つの旅籠に泊まった旅人が、壁越しに寝ながら話をしたという。また、別の話に曰く、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣の宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所ともいうらしい。たわいないと思ったが、あにはからんや、中山道の古跡として知られ、古歌にも詠まれ、広重の浮世絵にも描かれているとか。へー、知らなかった。
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雪芭蕉の句碑雪
県境を越え、岐阜県に入ると岐阜も負けては居られないと思ったんだろうね。すぐに芭蕉の句碑を立ててある。「正月も美濃と近江や閏月」貞享元年十二月二十三日頃、野さらし紀行の芭蕉がふるさとで年を越すために、熱田からの帰路、ここを通ったときに詠んだ歌とか。
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雪車返しの坂から今須宿へ雪
オーツカという名の工場前の信号のある国道を横切ると、すぐ右手に車返しの坂が案内されていた。曰く話は次の如し。「昔、京都の公家、二条良基(ニジョウヨシモト)が、不破の関屋が荒れ果て、板庇(ヒサシ)がら漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗って来たが、この坂を上る途中、屋根を直したと聞き、ここから引き返してしまった」わかるな、この気持ち。往時を偲ばせる物があるから、我々はこうして雨中の雪道を歩いているんだものな。(バーカという声も聞こえるけど)ここからが今須の宿。常夜灯が見える。街並みを進むと、民家の横にまた、常夜灯。曰く、「京都の問屋河地屋は、この辺で大名から預かった荷物を紛失し、困って金比羅さまに願かけ、お祈りしたところ、無事荷物が見つかったので、そのお礼に建立したとか」切腹もんだものな。
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雪常盤御前の墓雪
今須小中学校前を通過した。この辺りに本陣や脇本陣があったらしい。後に昼食場所に選んだ妙応寺に脇本陣の母屋の一つが移築されて残されていた。妙応寺を過ぎた辺りから、天候が回復してきた。今須の一里塚を見て、国道を渡り、今須峠の案内を見て、寂しい細道を進むと、「山中(ヤマナカ)」の里に至る。ここには道路から10mほど入ったところに常盤御前の墓があり、お参りをした。曰く、「都一の美女と言われ十六才で義朝の愛妾となった常盤御前は、平治の乱で義朝が破れると、子供の今若・乙若・牛若と別れ、敵の大将の清盛の愛妾にもなった。東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追って来た常盤は、土賊に襲われ息を引き取った。村人は哀れに思い、ここに葬り、塚を築いた」
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中山道の旅 五個荘~醒ヶ井 (2)

五個荘から歩き始めてここ高宮宿のはずれまで、およそ12~3kmになろうか。上さんに「調子はどうですか」と聞くと、「まあまあ」という返事。僕の方はあまり良くない。上さんについて行くのが精一杯だ。当初の予定は鳥居本宿。数キロ先だ。靴が雪溶け水を吸い込み、靴下が濡れて気持ちが悪い。足指がふやけている。正月数日で直った足指の水ぶくれがまた出来そうだ。とにかく自分を鼓舞して上さんに遅れまいと叱咤する。以下は後半のレポート。

雪 小野小町塚
上さんの昼飯の上前をはねて腹を満たしたあとは、自動車道に出た。雪で側道が歩けないので車道を歩くが、危険極まりない。小型車が数センチを残してかなりのスピードですれ違って行く。春日神社、多賀大社の東参道への近道を知らせる常夜灯を過ぎ、新幹線の下をくぐって、新幹線と名神自動車道との間を進む。小野と呼ばれるところで、鳥居本宿ができるまでは、宿であったとか。あちこちに名残を示す道標が立っている。と、小野小町塚に至った。「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」百人一首で知られた彼女の出生は諸説あって、不明。案内では以下の如し。「(前略)地元に伝わる郷土芸能『小野小町太鼓踊り』の中には、小野小町が謡われており、この地を誕生地とする伝承が残っている(後略)」とある。
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雪 彦根道追分
新幹線、高速道路がだんだん離れて行くと、鳥居本宿に近づいてくる。両側に民家が並び賑やかになって来ると、彦根道追分の道標に至る。正直言うと、上さんが教えてくれなければ、道標に気がつかずに通過してしまうところだった。彦根道は朝鮮街道とも言い、野洲に通じている。参勤交代の大名たちに彦根城下を通らせない目的があったのか、外国使節にだけは、城下の素晴らしさを見せたかったのかどうか知らないが、いつかは、この街道も歩いてみたいものだ。
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雪 赤玉神教丸
専宗寺、合羽の看板のある家、虫籠窓(ムカゴマド)のある家などを見ながら進むと、道路の枡形に来る。突き当たりの所に大きな民家?これが赤玉神教丸を作る有川製薬である。ウェブを見ると、赤玉神教丸1200粒が3129円であった。食欲不振(食欲減退)、胃部・腹部膨満感、消化不良、胃弱、食べ過ぎ、飲みすぎ、むねやけ、胃もたれ、胸つかえ、はきけ(むかつき、二日酔い・悪酔いのむかつき、嘔気、悪心)、嘔吐に効くのだ。近江鉄道鳥居本駅に近く、引き返すには最適の場所だが、上さんは、「時間に余裕があるからモット歩こう」と言う。私は、明治天皇小休跡、茅葺屋根の家など鳥居本宿の中心を力なく進んで行く。
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雪 モニュメント
鳥居本宿ともお別れである。国道8号線に入るところに例のモニュメントが立っている。虚無僧、煙草をいっぷく吸いながら休息する人、幟を手にした商人か、「またおいでやす」と声をかけている。
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雪 擂針峠
モニュメントから少し国道を歩き、擂針峠と国道との分岐点に来た。私はここから近江鉄道米原駅へと帰ろうと言うと、上さんは、番場の宿まで行こう。宿を回っても距離に差はないと言う。OK。納得ずくで、峠への道を歩く。車が通らないのが嬉しい。かなりの坂を上り詰めた所に望湖堂という茶屋跡があった。雪のために上には行けなかったが、そこからは琵琶湖が見えるらしい。擂針という地名の謂れはこうだ。「修行中の弘法大師が、ここを通りかかった時、お婆さんが石で斧を研いでいるのに出逢った。聞くと大切な針を折ってしまったので、こうして斧を針にするために研いでいると言う。それで大師は自分の修行の未熟さを感じてんだって歌を詠んだ。道はなほ学ぶることの難からむ斧を針tせし人もこそあれ」これを読んで、私も修行の未熟さを恥じたよ。
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雪 Y字路(中山道の道標)
峠道を下ると、Y字路に達し、中山道の道標があった。背後は名神道。これを左手に進んでいくと、番場宿、そして醒ヶ井宿に至る。
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雪 番場宿で雪かきをしているお婆さんに出会ったあ
右手に名神自動車道のトンネルを見ながら進む。米原ジャンクションへ2kmとトンネル入り口に書かれている。そのトンネルの上を登って下ると番場の宿を案内する石碑が立っている。静かな宿場だ。お年寄りたちが雪かきをしている。話しかけると手を休めて宿の説明をし、蓮花寺は是非寄って行きなさいと勧めた。
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雪 蓮華寺
お婆ちゃんの勧めてくれた蓮華寺は名神自動車道の反対側にあった。参道が名神道路を屋根代わりに使っている感じだ。ここは北条仲時以下432名の墓所があるので知られている。私は全く知らなかったが、話はこうだ。「足利尊氏に攻められ、六波羅探題北条仲時は鎌倉へと逃げるため番場宿まで来たが、佐々木京極道誉らに行く手を阻まれ奮戦むなしく元弘3年(1333)5月9日この寺で自刃した。憐憫の情をさそわれた当時の住僧同阿はこれを丁重に葬り、法名を授け、その姓名を陸波羅南北過去帳で蓮花寺過去帳として書き残した。これが現在重要文化財としてこの寺に伝わっている」夕暮れ間近い蓮花寺を出ると、私の右膝が痛み出した。サポーターを着けて脚を労わる。
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雪
長谷川伸の「瞼の母」の忠太郎番場の忠太郎でも知られた番場宿を出ると、楓並木のゆるい坂を下り、久禮の一里塚跡(江戸から百十七里、京都まで十九里)に至る。前方は名神高速と別れた北陸自動車道の下を潜るトンネルがある。トンネルを潜ってT字路を右に取り、息郷(オキサト)集落に入って行く。
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雪 六軒茶屋
息郷を抜け、交差点を横切って樋口の里に入る。茶屋道館(いっぷく場)があるが、日が暮れて来た今そんなことはしておられない。国道へ出るとJR醒ヶ井駅への案内があったが、危険なので旧道を進み醒ヶ井の宿に本格的に入って行くと六軒茶屋跡があった。
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中山道の旅 五個荘~醒ヶ井 (1)

暮れの草津?五個荘間30km踏破に続けて、今日1月3日は五個荘?醒ヶ井間24kmほどを歩いた。元旦の午後から降り始めた雪が積もり、田畑や山を真っ白にしていた。歩道は雪が残って歩けず、車道を歩いた。それでも上さんはどんどん距離を稼ぎ、当初、五個荘から愛知川宿・高宮宿と進んで鳥居本宿で終わる予定を、鳥居本をクリアすると番場に、番場をクリアすると醒ヶ井と次々と終点を先に延ばし、まだもっと先にも歩けるという。私はというと、雪解け水が靴に入り冷たいのに、またもや足指に水ぶくれができ、その上、番場の宿の蓮花寺を訪れる頃には右膝を痛めてほとんど歩行不能状態。なんとか持参したサポーターをつけて痛みを和らげながら歩く。太陽も山陰に隠れて薄暮となっており、醒ヶ井の駅に到着したときの嬉しかったこと。上さんにはルンルンの、私には苦難の旅の始終を報告しようと思う。

雪 左伊勢道 右京道の道標
近江鉄道五個荘駅の入り口に立つ道標。五個荘は、江戸時代には中山道や伊勢に通じる八風街道・千草街道などが通る交通の要衝であった。こういった地の利によって多数の近江商人を輩出した。1295d053.jpg

雪 愛知川宿入り口のアーチ
五個荘を出て愛知川に架かる御幸橋を渡ると、愛知川の宿の入り口である。不飲橋(ノマズバシ)という名が面白い。少し歩く「のまずばし」という小さな橋がある。謂れはこうだ。「昔この川の水源不飲池で激戦があり、池水に血が流れ込んだため人々はそれを嫌って池の水を飲まなかったとか、また平将門が身体の汚れを落としたため誰も水を飲まなくなった」

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雪 愛知川宿の浮世絵碑と書状集箱・しろ平老舗
竹平楼を過ぎ、商店街にある問屋跡、高札場、脇本陣跡などを経て「木曽海道六拾九次之内恵智川」の浮世絵石碑にやって来た。昔のポストも置かれている。しろ平老舗は創業慶応元年(1964)の外郎や甘酒饅頭を扱うお菓子の老舗とのこと。
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雪歌詰橋
愛知川の東のアーチをくぐると、旗神豊満大社道標のあるY字路に出る。この神社の竹で旗竿を作ると戦争に勝つというが、そんなことをせずとも良い平和な世の中が続いて欲しいものだ。町並みが切れると真っ白な雪に覆われた田園の向うに新幹線や鈴鹿の峰が見えた。そして歌詰橋へ。歌詰橋の話も面白い。「藤原秀郷が東国で平将門を討ち京都へと向かってこの橋まで来ると、平将門の首が追っかけてきたので、その首に向かい歌を一首詠めと言ったところ将門は歌に詰まりこの橋の上に落ちた」
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雪 江州音頭発祥地碑
歌詰橋を渡ると有名な豊郷町である。すぐに千樹寺に至るが、江州音頭発祥地碑が建つ。「天正14年(1586)年、藤野太郎衛門常実が織田信長による兵火で焼けた観音堂を再建、竣工が旧暦の7月17日であった。当日余興にと、仏教に因む造り人形を多数陳列し、仏教を広める手段として地元の老若男女を集め、般若心経の経文を歌って、手振り足振りを揃えて円陣を作って躍らせたところ、見ていた群集もあまりの楽しさに参加して踊った。これを期に毎年7月17日に踊りを催し、枝村観音の踊りが江州音頭として広まった」
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雪 伊藤忠兵衛記念館
又十屋敷・一里塚跡碑、金田池などを見て、伊藤忠兵衛記念館に至る。正月三日間は閉館であったが、案内は次の通り。「この旧邸は、初代忠兵衛が生活していたころのままの形が残され、その佇まいからは“近江商人”忠兵衛の活気あふれた当時の暮らしぶりや、それを支えてきた初代の妻・八重夫人の活躍が偲ばれます。また、ここで生まれた二代目忠兵衛は、母の教育や英国留学で学んだことから国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基盤を築いています。日本のビジネスを国際的に通用するように発展させた初代忠兵衛と二代目忠兵衛、そして八重夫人を偲び、その偉大な業績を讃え、末永く後世に語り継ぎたいと思います。ご来館をお待ちしております。」(伊藤忠兵衛記念館ホームページより)
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雪 おいでやす彦根市へ
豊郷町役場の「石畑」一里塚(豊郷は愛知川宿と高宮宿の間の宿)を過ぎ、中山道の雰囲気をちょっぴり伝える一本松の立つ豊郷小学校前を過ぎると、葛籠(ツヅラ)町の松並木が見えてくる。大きなモニュメントが彦根市の入り口。像の一人が担ぐ大きな円筒は何だろうと上さんに尋ねると、木曽街道高宮宿の浮世絵に円筒状のものを担ぐ女性が描かれているという。調べると、苧柄(オガラ)とか。これから訪れる高宮は麻布の生産地で、高宮布として近江商人が 諸国を回って売り歩いていたが、外皮を剥いで残った軽くて脆い茎は苧殻と呼ばれ屋根葺の下敷・お盆の迎え火・送り火・懐炉灰の原料などに用いられ、農婦が軽々と背負って運んだとか。ここは葛籠(ツヅラ)町だ。
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雪 若宮八幡宮と円照寺
モニュメントを過ぎると高宮橋を渡り法士(ホウゼ)町に。高宮橋も無賃橋で、増水すると渡れなくなり、困った彦根藩は橋を架ける費用を一般から募り架けさせたという。案内板の「むちんばし」の「む」を削り取ってあった。やがて「産の宮」とする案内に興味をもった。案内は以下の通り。「南北朝の争乱の時、足利尊氏の子、義詮が文和四年(1355)後光厳天皇を奉じて西江州で戦い、湖北を経て大垣を平定、翌五年京都に帰った。 義詮に同行した妻妾が ここで産気づき、男子を出産し、家臣とともにここに残った。 しかし、子は幼くして亡くなったので、悲しみ嘆き、尼になり、この地に一庵(松寺)を結んで菩提を弔った。 彼女の保護のために残った9名の家臣は竹と藤づるで葛篭を生産するようになり、松寺の北方に一社を祀って、この宮ができた」やがて高宮宿の本陣跡とその前の大きなお寺、円照寺に至る。
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雪 常夜灯と多賀大社の鳥居
芭蕉の紙子塚を過ぎ、やがて多賀大社の鳥居とその下にある常夜灯にやって来た。多賀大社へはここから3.6km行かなくてはならない。お参りはまた後にということで、高宮の宿を見ながら進む。倉儀という名前の、麻布を扱っていた店があった。高宮布は室町時代から貴族に愛され、江戸時代になっても高宮細美とか近江上布と呼ばれて盛んに取引されたという。
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雪 石清水神社
倉儀の反対側が高宮神社。高宮の中心であろうか。やがて石清水神社に至る。昼食場所を探していた我々はこの神社を選んだ。先ずはお参りをするが、ちょうど社務所では酒盛り?の最中で、我々にも縁起の神酒やあたりめや昆布を馳走してくれた。
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中山道の旅 草津~武佐 (2)

さて、中山道草津~武佐の報告の後半。7時半から、ほとんど休憩もせずにひた歩きに歩き、鏡宿で昼食。その後も切り上げるには時間が早く、いきおいどんどん歩き続ける結果になった。上さんは、僕より一回り年齢が上なのに、平気な顔で歩をすすめ、足を引きずり加減に歩く僕をいたわってくれるほど。スゴイ人だ。

走る走る 住蓮坊首洗いの池
東海道新幹線に平行して、国道沿いに歩く。枡形になっており、国道をちょっと逸れたところに住蓮坊首洗い池がある。話はこうだ。「京都に松虫・鈴虫という美人姉妹がおり、後鳥羽上皇の女官をしていたが、浄土宗の開祖法然の弟子、住蓮・安楽というお坊さんの六時礼讃の美声に魅かれ、上皇が熊野詣で中に剃髪、帰依してしまった。これを知った上皇は激怒し、安楽を京都の六条河原で、住連をここで断首しこの池で首を洗った。法然も四国に流されたが四年後に戻って住蓮山安楽寺を造り、二人の弟子を弔った」寺には今も二人の弟子と松虫鈴虫のお墓が有る。上皇が「これに懲りよ、住蓮坊!」と言ったかどうかはわからない。ああ、あれは道才坊だ。
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走る走る 伊庭貞剛邸跡
国道を離れ、本格的に西宿に入る。楠の大木があって、伊庭貞剛邸跡とある。案内によると、伊庭貞剛は明治の人で、この地に生まれ、裁判官として函館や大阪で活躍、役所仕事を嫌って32歳の時に帰郷した。しかし、住友に入社。公害問題でもめていた足尾銅山を見て、住友家荒れ果てた別子銅山を緑化、製錬所から出る亜硫酸ガスを除去する装置を開発した。58才になって「老人の跋扈」を厭い、早々と引退、余生をこの地で送ったとある。すご~い。今はただ広々とした跡地に一本の大木が残るのみ。
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走る走る 武佐下川家陣屋と中村屋旅館
若宮神社、近江鉄道武佐駅をすぎ、松平周防守陣屋、八風街道追分道標などを見るうち、下川家本陣の門が見えた。往時のものだという。道路を隔てて前には、今も営業を続ける中村屋旅館が建っている。この辺りの雰囲気は、まさに旧街道のもの。暫く歩くと、商家・役人宅の大橋家住宅もある。
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走る走る 武佐宿の案内板と象
武佐宿を横切る新しい道路を越えると、大きな武佐宿を案内する看板が立つ。看板には象の絵が書いてあり、案内によると「享保13年に象が輸入され、翌年大阪、京都、大津を経て、ここに一泊した」とのこと。当時の人たちは象を見てびっくりしたに違いない。
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走る走る 武佐宿脇本陣
明治19年に建てられたという旧八幡警察署武佐分署庁舎の建物を右に見て、武佐宿脇本陣跡(旧奥村家)に来る。現在は武佐町会館で、往時の雰囲気を残している。この辺りの史跡には、武佐小学校の児童たちが卒業記念に作った案内板が結構わかり易く説明している。
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走る走る 泡子延命地蔵尊御遺跡
べんがら格子の家、牟佐神社、西福寺などを見て、ほんの小さな川に泡子延命地蔵尊御遺跡という石碑が立っている。興味を覚え、見ると泡子地蔵のいわれが書かれていた。「昔この地に村井藤齊という者が茶店を構え、妹が茶を出して旅人を休ませていた。ある日一人の僧が来てこの茶店で休憩をしたところ妹はすぐに大変深くこの僧に恋をした。そしてこの僧が立ち去ると、僧の飲み残した茶を飲んだ。すると不思議やたちまちにして懐妊し、男の子を産み落とした。それから三年して、その子を抱いて川で大根を洗っていると僧が現れて嗚呼不思議なるかな、この子の泣き声が、お経を読んでいるように聞こえると言う。振り向いてその僧を眺めると、三年前に恋をした僧であった。妹が前年の話をすると、その僧が男の子にフッと息を吹きかけたとたん、泡となり消えてしまったと言う。僧が云うに、西の方にある「あら井」というところの池の中に貴き地蔵があり、この子のために、お堂を建て安置せよ。現在は西福寺の地蔵堂に祀ってある。このことは西生来(地元のおばあちゃんはニショウライと教えてくれた)の町名の由来でもある。」不思議な話だ。
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走る走る 根来陣屋跡と奥石(オイソ)神社
静かな町並みの亀川をぬけると、老蘇(オイソ)という集落に入る。東光寺、鎌若宮神社、老蘇小学校を過ぎると轟橋を渡る。小さな橋で、轟地蔵旧跡と案内が立っている。やがて、奥石神社に来るが、後に老蘇の森という大きな森を控えている。神社の奥に根来陣屋跡があった。案内によると、「和泉国の根来寺の僧であった根来家始祖盛重は、秀吉の根来寺焼き討ちのあと家康の家臣になった。数々の功績を上げ、大和・近江・関東に知行所を得たが、老蘇にも陣屋が構えられた」という。紀州根来寺と関連があるとは興味深い。
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走る走る
奥石神社をぐるりと回り、新幹線の下をくぐると清水鼻という集落に出る。名水で知られているとのことだが、やがて国道8号線を二度ほど横切ると、五個荘の入り口に入る。「てんびんの里」と記された大きなモニュメントが立っている。五個荘は近江に本拠地をおく他国稼ぎ商人である近江商人の発祥の地。五個荘商人はそのほとんどが江戸時代末期から明治時代の創業で現在も商社として多くの企業が活躍している。
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走る走る 五個荘の常夜灯と大城神社
五個荘北町屋町を進む。やがて、均整のとれた常夜灯が見えてくる。新幹線がすぐ背後に迫っている。ここを左手にとり、金堂という地区に立ち寄ることにする。金堂は近江商人の古い町並みが残る所で、近江商人屋敷が並ぶ。その一つは、外村繁(トムラシゲル)という作家の生家であった。近江商人たちの取扱商品は呉服・太物・麻布など繊維関係が主で、活動範囲は関東・信濃・奥羽地方と畿内を中心とした。勤勉・倹約・正直・堅実・自立の精神で先祖を大切に、敬神の念を常に忘れず、成功しても「奢者必不久」・「自彊不息」の心で、公共福祉事業に貢献たという。彼らの寄進によるものか、大城神社の石垣や鳥居、樹木の大きさには圧倒される。
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走る走る 電線上の野鳥と五個荘駅
草津からここ五個荘まで、直線距離にして30km。よくぞ歩いたものだ。頭上を見上げると、夕刻迫る電線に無数のヒヨドリ?が夜に備えて並んでいた。我々も愛知川を直前にしながら、近江鉄道五個荘駅を最後に車中の人となった。上さん、案内をありがとうございました。
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