上さんと13日に引き続いて中山道を歩いた。岐阜は加納宿から長い長い鵜沼宿への道(約18km)を早足で歩き続け、更には太田まで(約8km)足を伸ばして、念願の中山道の旅を完成した。今日は、家を6時に出て岐阜に着いたのは9時50分、行脚を終えて美濃太田駅に到着したのが5時30分。と言う事は、7時間40分歩いていたことになる。(ようやるわ!) 上さん、山さんという先輩が一緒に歩いてくれたことが、旅をゴールに持ち込めた最大の要因で、両氏に心より感謝の意を表する次第である。
岐阜駅と加納宿本陣跡
家を出て岐阜駅までおよそ4時間。駅の南口から地図を片手に歩き出す(9:45)。加納栄町通を中山道という表示で左折、加納天満宮を覗き、脇本陣、西問屋場跡などを辿って行くと、やがて松波本陣跡碑が真新しい住宅の玄関口にあった。皇女和宮がこの本陣に滞在した時に詠んだ直筆の歌碑もある。「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立うかりけり」(10:00)
加納城
「加納宿六曲がり」とかで、曲がりくねった道を時々間違えながら進む。水薬師に立ち寄り、大手門跡の碑を見たからには加納城も見ましょうということになって、岐阜大学付属小中学校横を通り、道草をして加納城跡の見学。石垣が残る。岐阜といえば金華山上の岐阜城を思い浮かべるが、ここ加納城は、徳川家康が西の抑えとして、1602年から造らせたとか。初代城主は家康の娘・亀姫の婿、奥平信昌。城を背景に大名行列を描いた浮世絵が街角にあった。「加納景観まちづくり実行委員会」発行の「加納」という小冊子によると、城の下には中世の加納城が埋もれているらしいとのこと。(10:20)
ぶたれ坊と茶所
冊子「加納」には、戦争体験談も掲載されているが、加納宿は戦火に見舞われ宿場の雰囲気はほとんど残っていない。とにかく「六曲がり」を地図に沿って辿る。地図といえば、街道筋のあちこちの民家の前に地図が入ったファイルが置かれて自由に取ることができる。「中山道加納宿文化保存会作成」としてあり、このような地域住民の取り組みは、我々旅人には嬉しいサービスである。宿のはずれが茶所(チャジョ)だが、そこに「ぶたれ坊と茶所」の案内があった。曰く、「江戸時代の鏡岩浜之介という力士は、土俵外での所業が悪かったことを反省して寺を立て、ぶたれるために等身大の自分の木造を置いて罪滅ぼしをし、さらには茶店を設けて旅人に茶を振舞った」と。 朝青龍もすればいいのに。(10:45)
細畑の追分
次々と通過する電車のためになかなか開かない名鉄茶所駅横の踏み切りを渡ると、加納の宿とはお別れ。次の鵜沼宿までは17kmもある。加納宿で少々時間を食ったので、あとは歩行速度を速めてひたすら歩くことにする。とにもかくにも鵜沼を越えて、太田宿まで行かなければならないのだ。やがて細畑に至る。追分で地蔵堂の横に見事な道標が立っている。「伊勢名古屋ちかみち」と読める(11:00)。更に進むと細畑の一里塚が、道路を隔てて2基とも綺麗に残っている。両方の塚の前には「祝中山道一里塚404年」と細畑自治会が掛けた横断幕が風に揺れている。400年ではないところが面白い。細畑(ホソバタ)には古い町並みが良く残る。
手力雄神社
長森細畑で交差する道は越前街道だが、北方に金華山と山頂の岐阜城が見える。細畑から切通(キリドウシ)、蔵前と辿ると赤い鳥居が道路の半分を塞いでいる。後に見る手力雄神社の鳥居だ。鳥居に掛かっている異形の注連縄が目を引く。天手力雄命は天照大神が隠れた岩戸を外からこじあけた力持ちの神様だ(11:30) 。神社横の細道を曲がりくねった道なりに進むと高田集落に入る(11:45)。ここでも民家の前に、中山道ウオーキング案内のファイルが置かれていて、鵜沼宿と加納宿間があまりに長いので途中に設けられた「間の宿・新加納」の案内が書かれている。
間の宿・新加納宿
ここはもう各務原市で、那加新加納町という。入り口に道祖神を持つ善林寺近くの民家では、日当たりの良い縁側にお婆ちゃんが座っている。帽子を脱いで挨拶すると、おばあちゃんも頭を下げて返してくれた。宿の中心に来ると古い民家が並ぶ(12:05)。鈎型の辻を巡ると、新加納立場に出た(12:07)。日吉町である。横の民家前には種々雑多のものが並べられて、異様な雰囲気(12:10)。
各務原から鵜沼へ
腹が減ってきた。各務原市民公園で昼食。鳩が寄ってくる。上さんにもらった「いよかん」が旨かった。国道21号線に合流すると騒々しいこと限りがない。川崎重工の工場を見ながら高架を降りると三柿野駅に出た(13:16)。駅員に頼んでトイレを借りる。国道脇には「ねずみ小僧」などという食堂があった。この辺は「ねずみ小僧」に関係があるとか。そして、真っ赤な馬の看板が(13:45)。JRの高架を渡ると鵜沼羽場(ハバ)町の交差点に来た。やっと鵜沼だ!(2:05) ここで21号線と分かれる。
鵜沼宿
鵜沼の宿は街並みが短かい。案内パンフも無い。鵜沼は52番目の宿場である。狭い道路沿いには往時をしのばせる家並みが残る。脇本陣跡には芭蕉の句碑がある。英泉の浮世絵「鵜沼の駅従犬山遠望」がレリーフとして飾られていた。大安寺大橋(小さい大橋だ)を過ぎ、自転車のおばちゃんに聞くともう鵜沼宿ははずれに来ているという。そういえば常夜灯があった。あっけない鵜沼宿の街並みだった。
うとう峠
常夜灯から先へ進むと「うとう峠」への道標がある。「ここは中山道鵜沼宿、これよりうとう峠」と書いてある(2:45)。太田宿へ行くにはこの「うとう峠」を越さねばならないのだ。だいじょうぶ今日中に家に帰れるか知らんと、不安に駆られながら進む。住宅地を通過し、大きな沼(これが鵜沼?)の横を行くと、「日本ラインうぬまの森」という看板。木造の新しい図書館があり、中山道の豪華なパンフレットをもらうことが出来た。これに従い峠道を辿る。綺麗に石畳が敷かれた峠道だが、うとう峠の「うとう」は「疎う」と書き、「よそよそしい・気味の悪い」という意味なのだそうな。一里塚前からどんどん下っていく。登りじゃなくて、ラッキ~。うとう峠は、江戸から来ると中山道最後の地道の峠だということ。中山道最終日の我々にとってもこれが最後の峠。楽しんで歩く(3:20)。が、じきに峠道は終了。水路を兼ねたトンネルを潜り、急な階段を上がると、国道21号線へ出た。ここは加茂郡坂祝町。
太田宿
国道の右手下には木曽川が流れ、ライン下りを楽しむ船が見えた(3:30)。国道の右端を歩くが、危険極まりない。やがて整備された木曽川の堤防を歩けるようになり、景色を楽しみながら進む。左手下には大きな民家の間に坂祝駅への看板。「取組(トリクミ)」という地名がある。やがて、中山道とはずれそうになり、再び国道に戻ると「酒倉」という地名。どんどんどんどんひたすらに歩く。やがて深田神社の石碑があり、我々は国道から離れ、また木曽川の堤防に近づく。太田橋の架かる辺りが太田の宿の中心である。道を尋ねると、自転車に乗ったおばちゃんは、我々の進む方向に自転車を返してしばらく案内してくれた。「坪内逍遥さんは偉かったんだよ」とか「本陣はそこの資料館の奥だよ。資料館は只(タダ)だから入って見学しなよ」なんて教えてくれる。おばちゃんと別れて資料館に入ったが、閉館10分前で、復元された宿場の様子を急いで見て回り、資料館を出た。夕暮れが迫り、斜めからさす太陽光に照らされて街並みがいい感じだ。本陣跡、旧太田脇本陣林家住宅(国指定重要文化財)などを見る。最後に祐泉寺を見て美濃太田駅へ。駅に到着してホームに降り立つと同時に岐阜行きの列車が出てしまい、30分近く待つことに。その間を利用して、ホームの待合所でビールで乾杯。中山道全行程の終了を祝った。
岐阜駅と加納宿本陣跡
家を出て岐阜駅までおよそ4時間。駅の南口から地図を片手に歩き出す(9:45)。加納栄町通を中山道という表示で左折、加納天満宮を覗き、脇本陣、西問屋場跡などを辿って行くと、やがて松波本陣跡碑が真新しい住宅の玄関口にあった。皇女和宮がこの本陣に滞在した時に詠んだ直筆の歌碑もある。「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立うかりけり」(10:00)
加納城
「加納宿六曲がり」とかで、曲がりくねった道を時々間違えながら進む。水薬師に立ち寄り、大手門跡の碑を見たからには加納城も見ましょうということになって、岐阜大学付属小中学校横を通り、道草をして加納城跡の見学。石垣が残る。岐阜といえば金華山上の岐阜城を思い浮かべるが、ここ加納城は、徳川家康が西の抑えとして、1602年から造らせたとか。初代城主は家康の娘・亀姫の婿、奥平信昌。城を背景に大名行列を描いた浮世絵が街角にあった。「加納景観まちづくり実行委員会」発行の「加納」という小冊子によると、城の下には中世の加納城が埋もれているらしいとのこと。(10:20)
ぶたれ坊と茶所
冊子「加納」には、戦争体験談も掲載されているが、加納宿は戦火に見舞われ宿場の雰囲気はほとんど残っていない。とにかく「六曲がり」を地図に沿って辿る。地図といえば、街道筋のあちこちの民家の前に地図が入ったファイルが置かれて自由に取ることができる。「中山道加納宿文化保存会作成」としてあり、このような地域住民の取り組みは、我々旅人には嬉しいサービスである。宿のはずれが茶所(チャジョ)だが、そこに「ぶたれ坊と茶所」の案内があった。曰く、「江戸時代の鏡岩浜之介という力士は、土俵外での所業が悪かったことを反省して寺を立て、ぶたれるために等身大の自分の木造を置いて罪滅ぼしをし、さらには茶店を設けて旅人に茶を振舞った」と。 朝青龍もすればいいのに。(10:45)
細畑の追分
次々と通過する電車のためになかなか開かない名鉄茶所駅横の踏み切りを渡ると、加納の宿とはお別れ。次の鵜沼宿までは17kmもある。加納宿で少々時間を食ったので、あとは歩行速度を速めてひたすら歩くことにする。とにもかくにも鵜沼を越えて、太田宿まで行かなければならないのだ。やがて細畑に至る。追分で地蔵堂の横に見事な道標が立っている。「伊勢名古屋ちかみち」と読める(11:00)。更に進むと細畑の一里塚が、道路を隔てて2基とも綺麗に残っている。両方の塚の前には「祝中山道一里塚404年」と細畑自治会が掛けた横断幕が風に揺れている。400年ではないところが面白い。細畑(ホソバタ)には古い町並みが良く残る。
手力雄神社
長森細畑で交差する道は越前街道だが、北方に金華山と山頂の岐阜城が見える。細畑から切通(キリドウシ)、蔵前と辿ると赤い鳥居が道路の半分を塞いでいる。後に見る手力雄神社の鳥居だ。鳥居に掛かっている異形の注連縄が目を引く。天手力雄命は天照大神が隠れた岩戸を外からこじあけた力持ちの神様だ(11:30) 。神社横の細道を曲がりくねった道なりに進むと高田集落に入る(11:45)。ここでも民家の前に、中山道ウオーキング案内のファイルが置かれていて、鵜沼宿と加納宿間があまりに長いので途中に設けられた「間の宿・新加納」の案内が書かれている。
間の宿・新加納宿
ここはもう各務原市で、那加新加納町という。入り口に道祖神を持つ善林寺近くの民家では、日当たりの良い縁側にお婆ちゃんが座っている。帽子を脱いで挨拶すると、おばあちゃんも頭を下げて返してくれた。宿の中心に来ると古い民家が並ぶ(12:05)。鈎型の辻を巡ると、新加納立場に出た(12:07)。日吉町である。横の民家前には種々雑多のものが並べられて、異様な雰囲気(12:10)。
各務原から鵜沼へ
腹が減ってきた。各務原市民公園で昼食。鳩が寄ってくる。上さんにもらった「いよかん」が旨かった。国道21号線に合流すると騒々しいこと限りがない。川崎重工の工場を見ながら高架を降りると三柿野駅に出た(13:16)。駅員に頼んでトイレを借りる。国道脇には「ねずみ小僧」などという食堂があった。この辺は「ねずみ小僧」に関係があるとか。そして、真っ赤な馬の看板が(13:45)。JRの高架を渡ると鵜沼羽場(ハバ)町の交差点に来た。やっと鵜沼だ!(2:05) ここで21号線と分かれる。
鵜沼宿
鵜沼の宿は街並みが短かい。案内パンフも無い。鵜沼は52番目の宿場である。狭い道路沿いには往時をしのばせる家並みが残る。脇本陣跡には芭蕉の句碑がある。英泉の浮世絵「鵜沼の駅従犬山遠望」がレリーフとして飾られていた。大安寺大橋(小さい大橋だ)を過ぎ、自転車のおばちゃんに聞くともう鵜沼宿ははずれに来ているという。そういえば常夜灯があった。あっけない鵜沼宿の街並みだった。
うとう峠
常夜灯から先へ進むと「うとう峠」への道標がある。「ここは中山道鵜沼宿、これよりうとう峠」と書いてある(2:45)。太田宿へ行くにはこの「うとう峠」を越さねばならないのだ。だいじょうぶ今日中に家に帰れるか知らんと、不安に駆られながら進む。住宅地を通過し、大きな沼(これが鵜沼?)の横を行くと、「日本ラインうぬまの森」という看板。木造の新しい図書館があり、中山道の豪華なパンフレットをもらうことが出来た。これに従い峠道を辿る。綺麗に石畳が敷かれた峠道だが、うとう峠の「うとう」は「疎う」と書き、「よそよそしい・気味の悪い」という意味なのだそうな。一里塚前からどんどん下っていく。登りじゃなくて、ラッキ~。うとう峠は、江戸から来ると中山道最後の地道の峠だということ。中山道最終日の我々にとってもこれが最後の峠。楽しんで歩く(3:20)。が、じきに峠道は終了。水路を兼ねたトンネルを潜り、急な階段を上がると、国道21号線へ出た。ここは加茂郡坂祝町。
太田宿
国道の右手下には木曽川が流れ、ライン下りを楽しむ船が見えた(3:30)。国道の右端を歩くが、危険極まりない。やがて整備された木曽川の堤防を歩けるようになり、景色を楽しみながら進む。左手下には大きな民家の間に坂祝駅への看板。「取組(トリクミ)」という地名がある。やがて、中山道とはずれそうになり、再び国道に戻ると「酒倉」という地名。どんどんどんどんひたすらに歩く。やがて深田神社の石碑があり、我々は国道から離れ、また木曽川の堤防に近づく。太田橋の架かる辺りが太田の宿の中心である。道を尋ねると、自転車に乗ったおばちゃんは、我々の進む方向に自転車を返してしばらく案内してくれた。「坪内逍遥さんは偉かったんだよ」とか「本陣はそこの資料館の奥だよ。資料館は只(タダ)だから入って見学しなよ」なんて教えてくれる。おばちゃんと別れて資料館に入ったが、閉館10分前で、復元された宿場の様子を急いで見て回り、資料館を出た。夕暮れが迫り、斜めからさす太陽光に照らされて街並みがいい感じだ。本陣跡、旧太田脇本陣林家住宅(国指定重要文化財)などを見る。最後に祐泉寺を見て美濃太田駅へ。駅に到着してホームに降り立つと同時に岐阜行きの列車が出てしまい、30分近く待つことに。その間を利用して、ホームの待合所でビールで乾杯。中山道全行程の終了を祝った。